id:florentine は
florentine(磯崎愛)のことを語る

「結局、人は自分が書ける水準でしか読めない」とおっしゃったhebakudanさんを思い出す。
おそらくは、「読めればワカル」というのはじつのところかなり甘い判断で、「書く」側に立たないと本当のところ言語表現の現場で何がどう行われているか理解することは難しい。少なくとも、わたしはナボコフの『青白い炎』をまあまあ愉しめたと「自慢(笑)」することができても、アレを真似して十数行二十行やるだけでヘロヘロで息絶えそうになるのだから、ほんとうに十全に理解したとは口が裂けても言えない(あの解説を書くメアリー・マッカーシーはだから凄い)。
あまりにも極端な例をだしたが(あの、ナボコフだからね☆)。
たぶん、どんな文章でも同じだと思う。
 
「結局、人は自分が書ける水準でしか読めない」
 
hebakudanさんは、本当に、それこそ息を詰めるようにして文章を読んでおいでだった。いちども会ったことがなく、ただ言葉だけのやり取りで、そこにこめた想いをすくいとるように読み取ってくださった。
ありがたい。ほんとうに、有り難い。
 
そして。
わたしに、あれだけの濃やかさがあるだろうか。
胸に手をあてて、考える。
ないと思うなら、諦めずゲットしろ。わたし。
「言葉が届く」という「現実」を、あんなにしっかりと経験させてもらったのだから。
 
「私の読書録に「文学」というジャンル名はない。「私はこう思う」と言うために書かれたものは、すなわち「私は他の人々とはかくかくしかじかの点においてこう異なる」ということを述べるものでもあって、そこに何らかの他者批判性が含まれるのはもともと避けられない。ゆえに、いかにそれを読んでもらえるかは筆者の表現技術の磨かれ方にかかってくるわけで、その文章に研鑽や創意工夫のあるものには必ず文芸的味覚性が備わっている。つまりは随筆も評論も広義の「文学」なのである。

こんな本が読みたい - 血止め式 」
 
こんなふうに、ひとさまの言葉に寄りかかってばかりいると叱られそうですが(笑)。
何度でも、書き写しておきたかったので許してほしい。
今日ちょっとまいってるしね。
でも、まいってるときほど、「言葉」は大事だと思うので。
それにすがりつき、そのただなかに身をおいて、そこからだけは逃げないと決めたので。
(いや、その他のことからは延々と逃亡をつづけてますよ。ええ。弱虫なのでね!)