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florentine(磯崎愛)のことを語る

~「美には傷以外の起源はない」ジャン・ジュネ~
 
長岡 義幸 『マンガはなぜ規制されるのか - 「有害」をめぐる半世紀の攻防』 (平凡社新書)
 
後半よんでいてずっと頭にあったのは、『星の王子さま』の「レオン・ウェルトに」です。
「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」
こどもを権利の主体として考えること。
わたし、本当に「大人」なのか未だにわからないし、こどものころから性格とか読むものとか好きなものとかほとんど変わってないように思えるし(成長なくてスマンとはしみじみ思うが、でも、しないんだな、これが。ていうか、ひとはちゃんと成長するってあまりに物語的にすぎるよね。うん。まあそういうことであっちこっちにぶつかりながら、このまま生きるぜ、ヒャッホー♪)、ここで規制派からくりかえされる「こどもを守る」という単語が本当に、よく、わからない。そんなふうな囲い込みは、少なくともわたしにはいらない。世の中には、そういう囲いをほしいと願うひとがいるのでしょうが。でも、それは「愛」じゃないと言いたい(そしてまた、アイじゃなくてもよくてすがりつけるものであればそれでいいという「欲望や」「弱さ」にどう向き合うかってことから始めないといけないんでしょうが、まあ、それは今は措く。双方それでよければそれでいいしな、と他人事感アリアリで言うことはあるし。て、わたし「黒い」かしらねw まあ物書きだから黒くてイイでしょ。「成績悪くて性格良い子」なんてモノカキとしちゃ最低です。そう感じないひともいるんでしょうが。ツマランよ、そんな小説家。って思うのよ、わたし)
そのひとがそのひとであることを受け止めることが大事なはず、もしも「守る」というなら、本当に危険がある場合以外はなるべく離れてそっと見守ることが必要なんだと思う。たんに「危ない&有害」(と思われるものなだけだけどね!)ものを遠ざけておくって「怠慢」でしかない。わたしは、そう感じる。そして、もしも傷ついてしまったらそのひと自身を信じて回復できる場所を用意することのほうが大事で、そういう救済場所(物語)を切り捨て、マジョリティから弾かれたひとを萎縮させるだけの法を通し、オカミが管理しやすいニンゲンだけを準備育成するって感じで怖い。すごく、怖い。
ある種のひとにはじぶんより下においておけるものを愛することが必要(正確な引用じゃありません。ごめんなさい)、とプルーストがスワンに図らずも(ていうか、ありとあらゆる企図があって)言わせてしまったひとことを思い出す。
または、スピヴァクが『文化としての他者』でくりかえし語っていたことのような。
そういう序列的な世界から抜け出すことができるかどうかは不明だし、不可能な業ではあろうけど、そこにとどまりつづけるわけにはいかないので、ジュネのいうように「抵抗」するよ。コトバを、表現を、イノチを、封殺されないよう、そうしてくしかないな、と。当面はわたし自身、萎縮しないで「書く」ってことになるんでしょうが。あと、わたしはもっと賢くならないとダメだ。きっと。
『民族主義・植民地主義と文学』も未読なので、なるべく近いうちに読みたいなって思いました。マル。
(しかし、書きながら、「美」なんてものがいらないひともいるのだな、とも感じたり。または「詩」のいらないひとも。まあ、いらないから、表現規制なんだろうしな。ああ、困ったな。この果てしない地平の乖離を埋めるものは何になるんだろ。せめても「言葉」かと考えているのだが、まだこたえは出ない。アガンベン、ドイツ語のつぎはギリシャ語続出で、いぐれーっく! と叫んでヤル気をだす魔術w)
(おかげさまで、今日は腕の調子かなりイイです)