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florentine(磯崎愛)のことを語る

~罵倒語つれづれ~
 
柳瀬尚紀さんと大江健三郎さんの対話だったかと思うけど(記憶が曖昧で本のタイトルとかわかりません>< しかも、もしかすると大江さんじゃなくて筒井さんだったかもという一抹の不安もあったりして。いや、あれは大江さんだ。でも意外にわたしのなかで大江さんと筒井さん偶にカブルのだ。なんでだ? わたしにとっておふたりの書くものが「面白い、超絶技巧SF」な面があるからか?? このふたちの対談もけっこう面白かったような。あ、筒井さんと柳瀬さんの対話は「前衛」って言葉についてが面白かったです。「前衛」カッコイイよね、前衛!! ひゃっほう☆)、「日本語には外国ほど凄まじい罵倒語はない」というようなおはなしがあって、本のタイトルも本当にこういう内容だったかもワカンナイという体たらくのまま勝手な印象でハイクで書いちゃうわたしはごめんなさいなひとだけど、でも、なんとなく、ソレがなくて好かったって思う気持ちもある。
 
たしかにわたしは普段から「エスプリ大好き~v」とか言ってるし、もし、ひとを殺せる言葉というものがあるのだとしたら、それに対する忌避感だけでなく「アカラサマナハシタナイ欲望」があるわけだけど、でも、そうしたコトバを使わないですんできた歴史が穏やかで平和なものだと仮定できるのだとすれば(これはあくまで仮定だけど! ラングやらパロールやらの問題にだけ還元できないであろうことは容易に想像できるので)、それはそれで悪くないと思うひとだったりする。
 
なんでそんなことを考えたかというと、ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』の訳者あとがきで、工藤幸雄さんが「『敵』という単語が『悪魔』と同じ語」だっていうようなことを書いてらして、ああ、それはほんとに凄まじいことだよなあと。
それはすでに「他者」ですらなく、文字通り「人外」なわけで。 
そのまま本を伏せられず、しばらく虚空を見つめてしまったあの体験は、忘れがたいものがあるなあと(で、また本文を読んだりするわけですが 笑)。
 
パヴィチ教授が書き進めた言葉の「強度」で、わたしはそれを読めているだろうかと、そういうことをしみじみ考えたりする。読めていないのはわかってるし、そういう考え方自体が跳ね上がりというかいわゆる傲慢だとも思うけど(歴史的文化的価値観のはなしに限らず、作者と同じだけの力量を持って読むという意味において、ここらへんはまた「モデル読者論」ともからむしイロイロ複雑ですが、まあ単純に、わたしにパヴィチの仕事が理解できるのかってレベルのことで留めて 笑)、でも、その「違い」を超えていくのが「文学の愉悦」、その「魔法」だとも感じる。
 
それと。
「敵」という語が「悪魔」である諸言語があるのと同様に。
罵倒語において、いろんな言語で「クソ」が用いられるのも「人間」で。
性的な罵倒語は好きじゃないし、もし自分が誰かや何かを罵るのなら、おもいっきりこちらの排泄系罵倒語を駆使してみたいかな(笑)。
そういえば、米原万里さんの、外国ですごした子供時代、学校でそのことについて知ったおはなしが、わたしはとても好き!!
(ああ、これも本のタイトル忘れちゃいましたけど! わたしに正確な記憶力とか求めないでくださいまし~><)
(シモネタは、けっこう好きです。性的なものは好きだけど苦手なとこあるけど、おといれ系は苦手意識なく好きv)
 
と、落ちもなく終わる~v
(いや、小説がたんにうまい具合にすすまんで困っとるのだよ)
(ていうか、たぶん、そういう時が実はウキウキしてるんだけどね~)