id:florentine は
florentine(磯崎愛)のことを語る

~「照れ」の研究(ウソw)~
 
後藤明生をして、たしか、「第四の人称」と言わしめたのが太宰治の小説だったかと思う。
(ウロオボエなんで絶対ずえったいに信じちゃダメっすよ! え~と、手元にこの本ないんでたしかめられずゴメンナサイ><)

『小説―いかに読み、いかに書くか』講談社
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061456849
(あ、この本も面白いですが、オススメはやはり『挟み撃ち』です!! ゴーゴリファン必読。でもって、日比谷線東武線利用者はコレを手にして電車に乗られることを推奨いたしますv)
  
去年初めて太宰をよんだ(教科書以外)というひとなんですが、ええと、わたしのまわりにいわゆる熱狂的な太宰ファンはいましてですね、彼女に「津軽だけでもヨメと叱られましたが!」(あ、お呼び出ししませんが、kanimasterさんにも津軽に☆いただいてたのですが、未読です)、
よんだのは、『御伽草子』と
「懶惰の歌留多」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/279_15089.html
というのがこう、
わたしの「趣味」を切々と訴えているようで、われながらたいそう興味深い。
 
で、「照れ」ですよ。照れ!
いや~、これ、ナルシズムとヒロイズムとの戦いですね。ただ、書くうえで照れちゃダメってことはない(と、思う)。トマス・ピンチョンの照れにはもはや余裕と取り違えそうな遊びが感じられますし、ダグラス・アダムスの堂々の照れっぷりは可愛らしい。
わたしが個人的に絶対の禁忌としてるのは「酔う」ことです。
生まれついて、というくらい、これはしたくないと思ってる。のめりこんでもいいけど自分の文章に酔わない。自動筆記みたいに指がキーボードを叩きつづけようとも必ず自分の外から文字を追う視線や感覚は失いたくない。
そのうえで、
そうやって自分を縛りつけたうえで、
 
「わたしは書きたいから書くのではない、習慣によって書くのでも、意思によって書くのでも、仕事だから書くのでもない。わたしは生き延びるために書いてきた。口を閉ざして語ることのできる唯一の方法だから書いてきた」
「個人的に言えば、わたしが書くことを通じて求めているのは失神状態だ。書いているさなかに、わたし自身によってわたし自身を反省的に把握するあらゆる意識から離脱できる可能性だ。時分が不在だった時に至るまで離脱することだ。わたしが生成した場所へと離脱することだ。それは竈だ。あるいは謎だ」
「つまりは死ぬために一心不乱になってさかのぼる源だ。(略)書くこと、それは産卵することだ。(略)それがあの泡だ。アフロディテだ」
「書く人は光源(イリュミナシオン)を求めている」
 
パスカル キニャール(高橋啓訳)『舌の先まで出かかった名前』 青土社http://www.amazon.co.jp/gp/product/479175607X
 
ていう、処にいきたい。
て、あれ?
「照れ」の研究じゃなくなってる(笑)。
え~と、パスカル・キニャールの自意識のありかたは、わたしの目指したい「照れ」かもしれない。
(あ、それでもってあのジーン・ウルフにも照れがある。もちろんジュネにも!)