おはようございます。
昨日は☆やコメントいただきましてとても嬉しかったです。
どうもありがとうございます。
おかげさまで、昨日よりだいぶ身体が楽になったように思います。
(でも腰が痛くてカイロはってる 涙)
それから。
「表現規制問題」についてアマチュア「表現者」のひとりとして何か発言すべきと思いながら、気力体力がなく、すみません。
岡真理著『アラブ、祈りとしての文学』やスピヴァクの『文化としての他者』のご紹介をしたいと思いながら、なんか、どうしたらいいかわからず途方にくれています。
あと、誰かとリアルで向き合って話す自分のコトバの弱さを痛感しているところです。
オンラインであろうとも書き手と読み手双方生身のニンゲンであって、わたしはその当たり前の重みを考えると実のところ身が竦む想いがして、そういう己の惰弱さに辟易しながら、ひとりでコッソリ何時か何処かの誰かに届くことがあると希いながら「小説」かいてるのだなあと、しみじみと、バカみたいに思ったりしました。
それと、ブンガク(漫画であろうとアニメであろうとどんな表現メディアであろうとも、わたしが生きるのに必要なものをそう呼ぶのだ!)というものは、みなが一方向に頭をむけてその「大事な問題」を追いかけているときに、その道すがらあったゴミ箱の中身とか、缶が曲がってはいってる自動販売機とか、じょうずに啼けない鶯とか、誰も見ないあいだに消えていく飛行機雲とか、アスファルトからせっかく顔出したのに踏み潰されたオオバコとか、踵の薄い靴をはいたサラリーマンが桜の散る花びらを思わずキャッチしようと手を伸ばした瞬間とか、なんか、ホントどうでもいいようなことどもを、後からノソノソ歩きながら拾い集めて積み上げるのも、「文学的使命」(笑)のひとつのような気が、わたしはスルんですよね。
まあ、もっと素晴らしい言葉で立派な「文学者」が言ってることではありますが(笑)。
なんか、超一流のひとたちも、わたしのようなアマチュアも、考えてること自体はそんな違わなくて(その深さとか精度とかはレベルが違うので、そこは勘違いしてませんよ!)、でも基本、そこにあるのは程度や質の違いというだけのような気がして、ひとはやはりひと、というか、こんな凄い小説かくひとも、じぶんと似たようなこと考えてるんだって感じるのは、嬉しいことです。
と、なんか話ズレまくりですが(笑)。
すべての「表現者」と、その「享受者」に幸いあれ。
ひとは誰しもその双方であるのだから。
florentine(磯崎愛)のことを語る
