~白洲正子『花にもの思う春』読みちう、まとまりなく~
このひとの『西行』は昔よんで色々思うところあったのでこれも手を出すのを躊躇っていたのですが、これは、今のところ、楽しく読んでいるような。じぶんが変わったのか、のめりこむような思い入れの強さがここにはあまりないから「違和」をおぼえないですんでいるのか、ちょっとその辺はまだわからない。
端的にいえば、「白洲さんの【西行】」を好むか好まないかの違いなだけですけどね。これは、しょうがない。というか、コレがあるから、ひとさまの文章をよむのが愉しい、または面白いわけで。おんなじなら読む必要ナイじゃん、という割り切りも、もちろんアル。
(以前にmimipannさんとやりとりさせていただいて書いたとおり。あのときは楽しかったです☆ もしかすると、「白洲さんの西行」のほうがお気に召すかも? どうかな、これも違うかな? わかりません 笑 わりと「出家」に焦点あたってたような気がする)
この本にもどります。
ここに『後鳥羽院口伝』、「定家卿」についての「原文」が全部あります。たぶん、歌好きの方なら一度くらいは目にしたことがある傑出した定家論または歌論ですが、ひさびさに読んで、思わず深くため息ついちゃいました。
「院の定家に対する烈しい愛憎の念」、「定家の作品と人間については、もはや付加する何物もないほどいいつくされている」その他、おおいに頷くしかないばかり。白州さんと同じ気持ちです。
新古今集その他をよむと、定家の歌だけ、浮きあがって見える。そう、感じることがある。このひとの歌だけ、他と違う。このひとだけ、ヒマラヤの頂上、とんでもなく空気の薄いとこに生きてる気がする。たとえて言えば、そこは人類の言語の突端みたいな場所で、誰もいないものすごい孤独のなかで言葉を吐き出して飲み込んでいる。
こどものころからそんなふうに思い、堀田善衛著『明月記私抄』をよんで謎がとけた。当時の「歌」はなによりも「政治」であるし、その「状況」「時間」「場所」、つまるところ「関係」のなかで詠まれるものなのに、定家の歌は、「切れて」いる。その「断絶」の凄まじさ、あとは詠唱されることを拒むほどの「視覚重視の文字の連なり」(だから、浮きあがって見えるというのはある意味、目で読むことを重視した定家の目論見通りであったりする)、時空を超越してしまう「言語の意味内容の飛距離」、凝りすぎといえばすむのかもしれない(笑)、かなりの歌が「時空と五感を綯い交ぜにしたヴァーチャル感覚」であること、そうしたあれこれが、わたしには、快い。
たんじゅんに言えば、「純粋芸術」ってことなのかもしれない(笑)。
詠み人の人生に寄り添って読むのではない形。
(かといって、わたしが西行さんの歌を読むときは、その人生の重みをズドーンと受け止めている気になるのだから、これが西行さんの歌の力か、なんだろ?)
まあ、「歌」はよいですな、と笑って終わりにしとこう。
florentine(磯崎愛)のことを語る
