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florentine(磯崎愛)のことを語る

~「長谷川等伯展」いってきたよ!~
 
最終日の5時直前入場という荒業をしでかしたつもりでいましたら、20時までやっとりましたですv
  
若いころの絵が巧いのでベックラする。なんだこのリアリスム。自然主義?
(いや、たまにね、若いころの絵が下手な画家っているでしょ? いるよね。いるんですよ!! ←何故か激白?)
細部に懲りまくるからこその、あの「松林図」のように思い、なんだか勝手に腑に落ちる。現実にあるモノを怖いほど見尽くすひとの線だ。仮借なさというか、う~んと、絵をみて絵をかくひとじゃない。
もちろんどんな画家だって絵をみて絵をかくだけじゃないし、等伯に絵的な美しさを追求したカタチの簡略化デザイン化などがないっていうことじゃなくて。後の宗達は絵をみて絵をかくことを自分に課したところがあって(そういう仕事『平家納経』修復をしたから当然だけど、そこに「美」を見ただろうなと)、ああいう「倣う」みたいな感じがないという意味で。
と書くと、水墨画を見て学んだではないかと言われそうだけど、空間表現(空気感)じゃなくて、カタチに関すること。わたしにとっての日本画のイメージのひとつとして図案化デザイン化があって、そこがなんか違う感じがした。
(わたしの日本画みてる量って西洋絵画に比べたら恐ろしく少ないので、こういう言い方もどうなのかなって思いますが。まあ、知らないからこその気軽さ気楽さってのもよいかなと☆)
それと、生い立ちとか何にも知らなかったので無心に見た。京都のお寺にあったりする絵は名をなしてからのものだったらしい。「京の冬の旅」で雪のなか凍えながら見た襖絵に再会したりして、ひとりで妙に感動する。
そしてもう断言しちゃいますが、ガラス邪魔だし展覧会場で見ちゃダメだよって思った。いやでも、ホント。座って見ないと。畳の生活なんだから。立っているなら歩く視線で見るべきなのではないかと思っているのですが、どうなのでしょう?
その場にいかないと、障壁画とか襖絵とかは悲しいです(フレスコ画なども同様)。
もちろん、そんなふうに見られないから感謝カンシャで拝んできましたが。
こういうのは贅沢な見方であるとは承知してるけど、西洋美術史勉強して思うのは、いっつもこのことだったりするので何度でもくりかえして言っちゃう。「現場」っすよ、現場。
その絵があった場所で見るってなんて幸福なことだろうとしみじみと思いました。また京都いきたいです。
あと、なんも知らないでまた無責任に言いますが(いいよね? べつに誰も信じないだろうし)、等伯は性格キツそうな気がした。名を成すひとは誰もがそうだろうとは思うけど。なんか、絶対にヤワヤワしてなさそう。交わったひとたち見れば、それもそうか。時代も。
時代はあるかな~。
個人の資質は当然あるけど、ソレもあるなあ。う~ん。芸術作品って難しいな。
それと、べつに今回だけのことじゃないけど、意識して、いい絵をみないとダメだと本気で実感する。イイって、そんな定義のアヤフヤなって感じのこといってるけど、う~んと、でも、それがイチバン通じやすい気がする。名画っていうと、西洋絵画っぽいから(これ、「マスターピース論」として高階先生がどっかで書いてるはず。スミマセン、適当で)。
などとウダウダかいてきましたが。
こうやって若いころから晩年まで見渡してみられるってシアワセー☆