~fukuzowさんのハイクに触発され、ほやほやっと、じぶんの読書スタイルについて考える~
だいたい併読。
常に5~10冊かかえる。文庫本は併読もないかな。わたしが唯一ひとさまに自慢できるのは速読だということ。中間小説だと文庫一冊1時間くらい。コバルト文庫あたりだと30~45分かも。
基本、最後まで読みとおすほうだけど、大部の著作は齧れるとこだけ齧って逃げ出すこともある。だけどシツコイので諦めない。大部な本ってホントにおっきいから、飲み込めないなら自分がおっきくなるのを待って、再チャレンジ。何度でも。
生きてるって、それが繰り返せることの素晴らしさだと思うし。
(でもね、なるべくなら引き返さない。初読時のときめきは何にもかえがたいものだし、一期一会的に、じぶんの全存在で立ち向かうほうがキモチイイから。必ずしも完全に味わえないこともある。でも、そのこちらがわの準備不足でさえ、受け入れるしかないとも思う。それに、ひとがどう読むかなんて、関係ないさ。わたしが、このわたしがどう読むか、だから。徒手空拳。これが、原則)
濫読。
わたしは、面白ければポルノであろうと手を出すのを躊躇わないフシダラ極まりないひとなので、なんでも読みます。
ぎゃくにいえば、じぶんが面白いものを知らないで死んじゃうかもしれないってことのほうが、「そんなのいやーん!」な感じなのです。
ごめん、貪欲で。業が深くて。でも、だって、イヤなんだもん。
(誰に謝ってるの? 笑)
古典について。
もしも外国文学をよむのが苦にならないひとなら、
カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』をおすすめする。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622046202/fc2blog-22/ref=nosim/
ここで言い尽くされてしまってるから、「古典を読む愉しみ」について言及するのはやめる。
ただ。
わたしのなかには、人類の言語藝術をならべて見渡す愉悦というのは確かにある。だいそれたことを言ってるようだけど。そんなにまでは、よんでないけど。
でも、せっかく日本ていう「翻訳」文化のある平和で安定した国にいて、図書館いけばお金なくても本よめて、よその国や過去のそれに手が届くのだから、吝嗇なようだけど、その幸福を享受しないのはモッタイナイって思っちゃう。
(えっとでも、きっと、世の中のひとは本を読むよりもっとずっとキモチイイことやシアワセなことをご存知なのかもしれませんが。わたし、現実生活でフコウだと言ってしまってるような気がすることもあるけど。でも、まあ、いいや。しょうがない。だって、そういうひとなんだもん。ちっちゃいころから本のなかに逃げ込む以外、行くところがないんだもん。でも、モノ書くひとって、多かれ少なかれそうなんじゃないかなって思うから、もう、いいの 笑)
ひとつひとつの作品の素晴らしさはおいて、そこで書く(歌う)ヒトが何をして、何をできず、次にできて、とか。そういうのを読む面白さもあるような気がする。歴史を読むという意味で。物語と歴史が同じ単語であることを示さずとも(笑)。
でも、なんとなく、俯瞰の悦楽というのはあると思う。後から来るものの強み。
たとえば。
フォークナーの『響きと怒り』を読んだ当時のひとはびびったと思う。なんじゃこれ? みたいに。
けど、わたしは驚かないですむ。だって、それはもう、過去のことだから。こういうことをやってる他のひとの作品をすでに知ってるから(そして、わたし自身がヤリタイとか思ってることだったりするわけだから)。
もちろん、今だって驚くひとはたくさんいると思うし、野心的な作品であるし、その評価というのはかわりないのだとはわかる。
作品も時代に制約される。そこを逸脱することが使命でもあるけど。
でも、そういう、翼を広げられずに飛べないでいるところは、不死にはなれない人間の、限界という名のいとおしさだと思う。
ぎゃくにいえば、そこがあるから、後から来るひとが先へいく、先へいけると信じられることでもあるし。
て、
こんなのが書けてしまうくらい、今日、お店番ヒマです(笑)。
florentine(磯崎愛)のことを語る
