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florentine(磯崎愛)のことを語る

~メモめも~
 
時間と主客と物語構造と、その他。
主客の問題は、一昨年、バタイユの『エロティシズム』を読み返して爆笑してしまった。または、あんなに神を忌避した(忌避じゃないかな?)サド侯爵のことなどを。

カトリシズムの位階、そのヒエラルキーに裏打ちされた「主」の問題。
サドは一般に西洋合理精神の批判をしたとかって言われてるけど、著作を読むと、そこにはある種の「規則性」に則られていることに気がつかないではいられない。物語の法則論と言い切ってしまえばいいのかもしれないし、またはサドが数学大好きだったせいとも考えられるでしょうが、あれは至極合理的です。少なくともわたしには。

またはバタイユにしても「客体」への言及のなさっぷりは、哄笑を呼び起こすほどの有様で。
わたしはちゃんと哲学を勉強していないのでなんだけど、テクストだけを頼りに、そんなことを思う。
(わたしがえすえむスキーなのは、カトリシズムのせいだということくらいは理解している)
 
それから。
インド文学の「構造」。
わたしが思いつく、知る限りでは、エピソード挿入方式、ある一定の時空間の語りに、違う時空間についての物語が挿入され、そのひとつひとつが連なっていくという印象。まさに、インドラネット的。またはウロボロス的。
(十代、そして大学時代にウパニシャッドやリグ・ヴェーダ、マハーバーラタ、シャクンターラ姫など読んだ限りのことだから本当にあたってるかどうか謎だけど。おぼえてる限りは、千夜一夜と同じような感じ。枠物語、か。ジョン・バースのいうところの)
 
物語、否、小説というものは基本的に「応報」の世界。
伏線と呼ばれるものが存在し、出来事をつなぐ。
過去から未来へ時間が一直線に流れるからこその「応報」である。
しかしながら、それは「現実の矮小化・簡略化」である。
よって、
ほんとうに、本当に、ひとをその物語内にひきこむためには、小説世界の時空間を語りによって変幻させる必要がある。
(もしくは、そのひとの「体験」と共振させ、記憶を揺るがせる。よって日常描写は追体験の宝庫なので大事に書くのは当たり前のこと)
 
うぎゃあ、もう寝ないと。
なんか、まだ考えたいのに。あうううう。