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florentine(磯崎愛)のことを語る

ちょっと戻ってきた(笑)。
げんじつ、じぶんの書くものがこれにそっているか謎だけど。
軽さと速さは、それがないともう、21世紀文学(その後の千年紀文学)として通用しないからなあ。
これがしょっぱなにくるのは、モデルニテ、ポストモダン、その後の行方を占ってしまっている。スローな方向にはいかないって、過去へは戻れないと、カルヴィーノは考えていた。あれだけ温故知新なひとだからこそ、それは、痛いほど、本当に痛いほど感じていたと思う。中世騎士物語の水平と垂直方向の語りを、取って返して丸めて縮め、なおも引き伸ばして立たせ、しっかりと歩ませたあの力は凄まじい。
古典や中世文学を読んでいれば、まあ、昔へは返れないとしか言えないかなと、じぶんでも思う。文体の速度というものの推進具合、加速度は、次は「声(音速)」を超えて、光速の世界、またはそれを超える何かを志向してる。
だからというわけではないけれど(わたしには迅速さとか素早さとかは備わっていないように思うから)、線状性さえも、もしかすると放棄するくらいの筆力があればいいとは願う。詩の次元の手前で散文がどこまでそれを保てるかとなると、吐き気がしそうなほど際どいレベルなのだな。ジャン・ジュネがそれに似たことをしていて、伝達ツールとして機能するかしないかというのは、「小説」の、なんだ、小説が小説であることの本当に最後の線かもしれないし。というか、でも、小説はそれさえも許容できるから、小説、なんだよなあ。凄いことだ。けっきょく、ここがイチバン自由だから、ここに来る。ここに、いる。
「意識の流れ」は、言語の線状性への叛旗ではないかと思ったりしている(文学者がなんていってるかは知らない。わたし、ちゃんと文学勉強してないし。ただ、小説を読んでるだけで)。きれぎれの思考、時間の経過、流れ、軌跡を放棄して、けれど、テクストがどこまでテクスト足りうるのかって、ん~、わからない。
どこで、通じなくなるのか。耐用性汎用性その他がなくなるのか。踏みとどまっているのか。
あとは、時間。時空の問題。
瞬間、回帰性、永続。無限有限。拡散収縮。反復、逸脱。壷中夢、胡蝶夢。
パヴィチの仕事は、ジュネが断続的テクストを縦横無尽に配置し、網を張り巡らして時間を操作したあのやり方の別ヴァーションで、ジーン・ウルフが完全記憶という特異な主人公を用いて読者を煙にまくやり方は古典(から現代までの)小説技法の集大成であり、ラファティの語りは大いなる「夢の時間」を生きたひとの特権的なそれ。
2009年はこればかり考えていたけれど、出来るかどうかは神のみぞ知る世界的にわかんない。手捌きが見えたからといって、やれるとは違う。ただ、見えなければヤルのは困難で、だから読むしか、ない。書くしか、ない。
   
かんたんに。 
重いものを軽く書いて本当の重みを出す超絶技巧。
インターネット世界の同時性にも負けない、否、超えるスピード。
情報の過不足のなさ、ある意味での節度。
テレビ、映画、漫画、ゲーム普及後の文字文学の使命。
たんじゅんなものは喜ばれない、当たり前に。もうすでにありとあらゆる文学があるのだから。
そして、それでなお、その全てを繋ぎとめてしかるべき「言いたいこと、言うべきこと」。
 
もう、引き返せないところへ来た。