id:florentine は
florentine(磯崎愛)のことを語る

~三島らヴ☆(我ながら、これは気色の悪い妄想であるとお断りして)~ 

16日のトークイベント後、中央快速線に乗り込んでからずっと、
三島由紀夫のことばかり考えていた。
トークで名前がでたせいもある。
でも、そうでなくとも思い出したに違いない。
「読者を信じる」ことを自分に許そうとしなかったひととして。
または、それが出来ずに死んでしまった作家として。
わたしの胸のなかにはいつも、彼がいる。
わたしの初めての「作家」であるし、そしてまた書きつづけてほしかったひととして。 
 
世の中のひとはどう考えているかわからないけれど、
わたしは、小説家が自殺するときというのは、
「書けない」という、ただ一つの理由のためだと思っている。
病気とか借金とか色恋とか政治的理由とか? そりゃあ理由はあるだろう。
でも、「書ければ」死なないと思う。
死ねないとも、思う。
 
誰とはなしても、「三島は馬鹿だ」といわれる。
もちろん、わたし自身もそう感じないではいられない。というか、「愛すべきお馬鹿ちゃん」というとっておきのナイスなポジション(ここ、笑うところなのかどうかイマイチ書いててもわかんないのですが)があったのに、どうしてそこにおさまれなかったのだろうと、いつも悲しくなる。ときたま短編でちらりとみせる、その幼稚なつぶやきめいたものこそを、切り捨てず、大事にして、隠して生き延びさせながら、60歳か70歳すぎてもう格好をつけられなくなってきたときに長編として世に問えば、それは、真実の「黄金の書」になったと思うのに。

ところが三島はそれを刈り取って踏みつけて無いものにして、自分の命を投げてしまった。 
 
三島とその肉体、ボディビルの件は誰もが語りたくなることで。
ああいうことをせずにはいられなかったのはともかくとして。
なんてバランスの悪いひとだろうと嘆いても、もうその声は届かない。
 
だからというわけでもないが。
わたしはときどき夢にみる。
 
『豊饒の海』を書き終えた瞬間の三島を拉し浚い、乳と蜜の流れる楽園のような惑星に連れて行き、20年くらい死なないように自分を痛めつけないように見守って(ていうかズバリいうと監視して)ときどき盛大に褒め上げて(途方もないさびしがりだから孤独にはたえられんと思うし、さりとて他の人間がいると緊張するし、はたまた賞賛されないと欲求不満になりそうのでイロイロめんどいのだがな)、いいかげんに堕落して日本語わすれて弛緩しきったところで地球に戻し、机の前に座らせたいといつも思う。
 
それでも書きたいものがあるかどうか、問うてみたい。
 
きっと、あると、思うのだよ。
人気作家としての下手な賞賛で間に合わせるようなレベルのものでない、またはこう書けばこう論じられるだろうというような小さな小説世界の約束事からはなれた、超ド級の文学が。
 
(いやー、それにしても、この妄想も変態度満点だねv そして三島の場合、ドは、カタカナだよね。このひとSFスキーだから)
 
ナボコフは三島を貶しているらしいと聞いたことがあり、そりゃあそうだろうと思う。
それでも、わたしはロレンス・ダレルの『アレキサンドリア四重奏』より、三島の『豊饒の海』のほうが小説として格上だと思う。後から来るものは強い。いっぽうで、谷崎の『細雪』に比べると、あまりにも弱い。おかしなことに、そう感じずにはいられない。もちろんわたしはその理由を自分なりには飲み込んでいる。だが、ここでは挙げない。
こんな、強いとか弱いとかいう大きすぎる単語で言い尽くせるものではないし、それをちゃんと相手に伝えたいと望むなら、「小説かくしかない」と思い定めてしまうのがわたしなので。
(だってだって、小説よんだら小説かく以外にスルこと思いつかないよ!)
 
三島は読み手を裏切りたいと望み、賞賛という冷たくやわらかな愛撫を欲しがることをやめられず、何処へもいくことを諦めて、自分自身を本当の最後の旅に連れ出してしまった。
 
あの文体で表現できる最上最高のものをやり尽くしたからといって、そしてその限界がもう見えてしまっていたとして、でも、それはきっと変えられたはずだ。変われなくて苦しかったのだろうとはわかるけど、でも、変わることはできたと思う。たとえば、ジョイスのフィネガンズ・ウェイク自分でぜんぶ訳しちゃうとかね。かなり無茶しないとダメだっただろうけど、やるだけの意味も意義もなにもかも、あったと思う。
 
「信じる」という行為は、小説家のもつ生理とかなりかけ離れていたりする。少なくとも、わたし自身はそうであるし、自分の好きな作家たちを見ても、基本「疑り深い」系であると言って咎められないと思われる。
(だいたい、大声でいうけど、信じやすい作家のかくものが面白いわけナイだろう。そんな素直で可愛いお馬鹿サンが書いたもの、読みますか? 読みたいですか? わたしは読まないよ)  
 
信じていれば、最低限の言葉でいい。
ひとことで言えれば、言葉は重なっていかない。文章にも、ましてや小説にもならないであろう。書けてしまうという時点で、だから、信じてはいないのだ。何もかもを。
みなが何気なく思い込んでいることに疑義を呈するのも「小説家」の愚かさという名の特権であろうことを鑑みても、きゃつらは殆どなにも信じてはいないのだ。
この世がこうであること全て。ほんとうに、すべて。
 
さりながら。
小説家は己の生理に反してまでも「信じる」必要があるし、それを迫られるのが「小説」(書く行為)というもので、また「信じ」なければ書き得ることのできない「小説」があるのもまた事実で、奇妙なことにそういうことだけは「真実」だと言い切ってしまう素朴さが、これ以上ない「小説家の愚鈍」であると思いながら。
まあべつに、こんなこと、物書きはみんな書いてるので今さら言うことじゃないよなあと頭の隅で考えて、ほんと、このひとたちって恥ずかしいわ、と我が身を振り返らずに嘲弄し、あとでひとりえすえむ的に愉しむことにする。
 
いちおう、わたしにも、ささやかながら廉恥心はあるのだ。芥子粒くらいにちっちゃいけどね。
あと七度うまれかわっても、『カンディード』ほどカッコイイ小説かけるようにはならないと思う、甘ったれた自分にカツをいれてみた次第。
んじゃ、更新準備してきます☆