~日本語が亡びるとき 読了~
格別に特記しなければならないようなことは書かれていない。これは、モノかくひとなら常に考えていることではないかと思う。少なくとも、義務教育で英語を、大学でその他の外国語を習い、かつそれを訳させられて(この受け身なかきっぷりに苦手意識が表出すること甚だしいが 笑)、西洋文化や文学に触れてなお、「日本語」でなにかしたためようとするのなら、こうしたことを考えないで「書く」ことは不可能なわけで。
わたし個人としては、後半部より、前半部のアイオワ大学での暮らし、そこで会った文学者たちの姿や彼らの生き様、その触れ合いがこころに残る。
(たぶん、後半部の「論」は、翻訳者のひとたちの書いている本のほうが読みやすくわかりやすいように思う)
わたしが吹き出したのは、二ヶ所。
ひとつは。
「フランス人には内緒だが、そんなおもしろい表記法をもった日本語が「亡びる」のは、あの栄光あるフランス語が「亡びる」よりも、人類にとってよほど大きな損失である」
これは、わかる。
たしかにフランス人には悪いけど、わたしもそう思うことがある。翻訳者・柳瀬氏いわく「日本語は天才」なので。もちろん、「天才」は「万能」ではない。わたしにはひたすら窮屈なときもある。だが、間違いなく「天才」ではあろう。
ふたつめは、これ。
「〈叡智を求める人〉というのは、必ずしも精神的に優れた人たち、つまり、勇気があったり、公平であったり、心がやさしかったりする人を指すものではない。ただ、さまざまな苦労をものともせず、自分が知っている以上のことを知りたいと思う人たち――のみならず、しばしば、まわりの人たちの迷惑をも顧みず、自分が知っている以上のことを知りたいと思う人たちである。自分が知っている以上のことだけでなく、人類が知っていることすべてを知りたいと思う人たちである」
笑った。
そうそう、コレヨネ、コレ的に。
いちおう、その次の段落からもひいておく。
「そして、かれらが、読むだけでなく、書きはじめることによって、人類にとっての〈読まれるべき言葉〉の連鎖が始まるのである」
そう、そういうことだ。
読むことから「なにか」の一端にとりつき、ついで書くことでその潮流にのる。
けっきょくは、これだけのことなのだ。
読み終えて、ただ、そう思う。
florentine(磯崎愛)のことを語る
