~レイフェルおじさんとわたし~
目をあけると、涙が耳にはいりこみそうになっているところだった。
いまは真夜中だろうか?
見知らぬ天井を眺め、ここがオクラホマの家じゃないとやっと気づく。そういえば、波の音がずっとやまないのが不思議だったのに、わたしはいつの間にかそれに慣れてしまったみたい。
日に焼けた肌が異様にほてり、なんだか風邪をひいたときみたいにぼうっとした。けっして眠るもんかと思ってたのに、やっぱり眠ってたということは、オトナのいうことはけっこう正しい。
そうだ、とても、しあわせな夢を見ていた気がする。
おじさんといっしょにブンブン空を飛ぶ夢だ。昼間、キャッチボールをしたからかもね。夢って面白い。
涙の粒がくすぐったくてあげた手に、なにやら硬い感触がある。
そうかわたし、夕飯の後、おじさんの部屋からこれ、持ってきちゃったんだ……。
鎧戸の隙間からもれる星明かりを頼りにみると、そこに、おじさんの名前入りの「ENDマーク」が妙に居心地が悪そうに鎮座していた。
もしかすると、おじさんはこれがないと困るかもしれないな。
そんなふうにいい子ぶって反省してみても、それはうそ。
わたしは、おじさんが困った顔をするとすこし嬉しい。
ひと眠りする前、わたしはおじさんの部屋にはいり、机の引き出しから「ENDマーク」をつかみあげた。胸が、ドキドキした。イケナイことだとわかってたけど、おじさんのおはなしを終わらせない「魔法」をそれ以外、思いつかなったの。
おじさんのおはなしが終わってしまうのがいやだった。ずっと、隣でおはなしを聞いていたかったの。ご飯だとか寝る時間だとかパパにいわれて中断されるのもむかついたけど、終わってしまうのが何よりもつらかった。
わたしは「千夜一夜物語」のシャハリアール王のようにおはなしの続きをねだりつづけ、おじさんはシェヘラザード姫のように語りつづけた。
それなのに、おじさんは言った。
「終わりのないものはないんだよ」
「うそ!」
「エントロピーを知らないかい?」
「知ってるわ。それくらい知ってるけど、でも、おはなしは終わらないわ。たとえ宇宙がおしまいになっても、おはなしを終わりにしてはいけないの。だって、宇宙が終わっても、おはなしを始めれば、また始まるわ。だからおはなしをやめちゃダメ!」
おじさんはわたしの剣幕に目を丸くしていた。
その顔をみたら、わたしはどうしてか赤ちゃんみたいに声をあげて泣きそうになり、足のつま先に力をこめ、手のひらをぎゅっと握って涙をこらえた。
「……おじさん、いつか『九百人のお祖母さん』のおはなししてくれたでしょ? 宇宙がおしまいになったら、あのお祖母さんたちみたいに「ああ、始まりのなんと滑稽だったこと」って言ってくれなきゃ。そうしたら、また始められるもん」
わたしの執念深さに感じ入ったおじさんは、小さく笑ってからうなずいた。それでわたしが安心して続きをねだろうとすると、もう子供は寝る時間! とやけにしゃちほこばったことを口にしてわたしをベッドに押し込んだ。
だからわたしは腹が立って、おじさんの部屋にはいってこれを盗んだの。
今になってみると、ちょっと罪悪感もある。
でも、これを返したくない。
ぎゅっと手に握りこむと、おじさんの、調子っぱずれのかすれ声が耳に届く。
大人たちはこんな夜更けだというのに下の階でお酒を飲んで、酔っ払って歌をうたっていた。アイルランド古歌の調べにたゆたうおじさんの声は、いつもよりずっと頼りない。
海をみたのは今日が初めてだった。もちろん泳いだのもはじめて。
おじさんとふたりで夕涼みに出かけたとき、おじさんは、海をよく知っていると教えてくれた。遠い昔に毎日見ていたとつぶやいた。何処でときくと、ずっと南、とだけこたえて口をつぐんだ。
海をみるその横顔に、おはなしをねだることができなかった。
おじさんの視線がわたしからはなれ、遠い水平線のむこう、白い波頭が生まれては消えるその先の、ずっと先へとむいていた。
砂浜で黙ると波の音がきゅうに騒がしく耳を撫で、サマードレスの裾を風が乱暴に揺すりはじめた。
わたしはふいにたまらなくなっておじさんの服をつかんだ。
「おじさん、おなかすいた。帰ろう」
おじさんはわたしを振り返り、ゆっくりとうなずいて、そっと手をさしだしてくれた。
わたしはもう、手を引かれるほどちいちゃくはない。
そう思ったけれど、わたしはその手を離さなかった。はなしたら、おじさんが海の遠くへといってしまうと感じていた。
そのときまで、ほかの大人とちがい、おじさんの傍らにいて置いてきぼりにされたことは一度もなかった。だから、とてもさびしかったのだ。
……わたしは知らなかった。
おじさんが、南の島まで戦争しに行ったことを。
そして、おじさんが親戚なのなかでもとくに大酒呑みなのがどうしてか、わたしが想像できるようになるのはもっとずっと後のことだった……
海べりの町の、その湿った夜気におじさんの声は浪々と響き、波の音をしたがえて、海の向こうの島々まで漂っていくようだった。
うちの親戚は歌や音楽も大好きだけど、みなおはなしが上手で、こうやってみなが集まると、それぞれかわりばんこに自慢のおはなしを披露した。なかでもおじさんのおはなしはいっとう面白くて、まるで聖ブレンダン様の航海のように、いくつもの不思議が当然のごとく繰り返され、それをひとは奇跡と呼ぶのだけど、語り部であるおじさんにとってはなんでもないことのような平らな声で、迫り来る危機や馨しく光輝あふれる祝福、またはお腹がよじれそうな滑稽話や泣くことも忘れそうな悲しみをも、すこしつきはなしたふうに語るのだった。
わたしはレイフェルおじさんの語り口がいちばんに好きで、おじさんにだけ、ずっとおはなししてほしかった。
そうやってワガママをいって、さっき、夕食のあとで怒られたのだ。
「終わりのないものはないんだよ」
おじさんの、そんな言葉はききたくなかった。
だからといって、こんなふうに「ENDマーク」を盗んでみても、たぶん、おじさんの言葉はくつがえらない。でも、なにもしないわけにはいかなかったの。だって、おじさんのおはなし以上に面白いおはなし、わたし、ぜんぜん想像できないんだもん。
「そんなこと言ってちゃあダメだ。おじさんの鼻をあかしてやるって思ってくれなきゃあ、今まではなしてきた甲斐がねーじゃないか? なあ、ほんとはそう思ってるだろ?」
わたしってば、情けないことにそこですぐさま、ウンって言えなかった。それでこんな盗みをしちゃうなんて、ダメだわ。
サイテー!
波の音をBGMに、ひとしきり自分を罵倒してみたら意外にもどうしようもなくヤル気になった。
最低なとこから始めりゃあ、あとは上にいくしかないってことさ。
おじさんのように悪ぶって肩をすくめ、「ENDマーク」をじっくりと眺めながら、さっきまで見ていた夢を思い返す。
ああ、なんか、これでおはなしが書けそうな気がする。
わたしは思わず声をたてて笑い、「ENDマーク」をハンカチにくるんでかばんの奥にしまいこんだ。
これは、わたしの「宝物」。
オクラホマに帰ったら、おじさんがくれたラジオの部品や柱時計の残骸を寄せ集めでできた宝物箱に鍵をかけていれるつもり。
そんなわけで、その日以来、わたしはおじさんに無茶なおねだりをしなくなり、かわりに自分でおはなしを書くようになった。
それは、この宇宙の終わりの始まりのこと。
『九百人のお祖母さん』のさんざめく笑い声が、星ぼしの海のさざなみに似て、夢の汀に聞こえた日。
わが最愛の作家へ
