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florentine(磯崎愛)のことを語る

わたしから逆に質問が。
SIMPLETONさん、ジャン・ジュネと、どう「関係」したい?
(オレ様いま、女衒か、遣り手婆になった気分だぜい☆)
ヴァージンか童貞かに拘るようなひとなら、ジュネを読む素養はあると思います。と、生意気に言うぞ(笑)。 

その本がいいかどうかは、ちょっと待ってね。訳者さん、面白いひとだ。
たしか、堀口大學だった気がするけど?
学生時代にちょびっと読んだだけなので、忘れた。正直、色眼鏡で読んでたから、あまりぴんとこなかったような。いまは違うかも(20年前のわたしの小説読み能力の低さははなしにならんレベルなのでね)。
記憶だけで比べると、わたしには、『ブレストの乱暴者』のほうが断然面白いかな。

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それから、2009年の総括的に、こっからはマジレスいくよ!
 
ジュネを読むということは、文字通り20世紀思想を生きるということで(植民地問題、人種・性差別・フェミニズム、さらにはクイアについて。そして聖俗の問題。反社会的とは何をさすのか極めることで)、言語芸術の魔法のただなかに身を投じることで、母と息子の息遣いを聞きながら父なるものに一瞥をくれて、この世の果てへと旅することでもある。 
土地・領土という視座をさえ、つまりは「母」なるものへの撞着を失することが、彼の希(のぞみ)であったと思う。
ある意味、完璧すぎるほど美しいSFなのだ。その瑕のなさに、触れるのを躊躇うほどの。
ジュネの最後の小説はそういう作品で、わたしはこれを、地球人の最高傑作として異星人に送ってもいいと思う。

この世には、この本よりも言語芸術として凄いことをしている小説や物語の面白さのある小説が幾らでもあるだろうけれど。
でも、人間存在の行く末を照らすましろき光、母親の胎のそとへ出るためには、この清冽なひかりが必要と思う。
これは、新しい人類の書、だ。
ひとが今後いく、歩く、記すための、書物だ。
あの最初と最後は、そういうふうになっている。 
 
まして、ジュネのいう「裏切りの愉悦」とは、それを知らないものは愉悦のなんたるかをいささかも知られないと言われるソレなのだ。
ただ目を開けて読めばいいわけではない。 
砂の上に書いてある文字、爆風に侵され、誰かが踏み抜いて潰し歩いた文字を解読するように読むしかない。
わたしのこの文章さえ疑ってかかり、何も掴まるところのない場所で這いずる覚悟があるなら、来るといい。 
 
ジャンは、貴兄に最高最上の愉悦を約束する。
無論、それさえも、「裏切りの愉悦」の前には脆くも崩れ去るのだが。

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ジュネの真価というのは、泥棒詩人の系譜で、フランスという「人権」発祥の地(って言ってもいい? フランス人権宣言的に 笑)に、ああいう継子(と、あえていうよ!)が生まれたことの意義だと思うのね。
 
父権と母権の戦いの狭間に、彼のようなひとが生まれ出でて、双方の手から逃げ切って逃げきって、つまり裏切って裏切って、人種差別と植民地問題へとつっこんで、最後はそこからも逃げていくっていう、あの逃走につぐ逃走が凱歌と寸分たがわず聞こえながら、真の意味での勝利ではない、ってところが永遠の「こども」のジャン・ジュネで。
 
わたしは、もう、そこにしか生きる道はないと、ある程度の心積もりはもっている。ジャンと、再会してしまったから。
そうでなくとも、フランス文学(ユマニスム)の日本受容のなかに自分が生きているという自覚はきちんとある。
 
そして、覚悟というのは本気で生死に関わることだから、おいそれと口に出せないけれど。わたしには、「戦争のある時代」を生きているという実感もある。ちゃんと、ある。それは、自分の小説にはっきり書いたし、これからも書くと思う。
 
だからこそ、SIMPLETONさんは、どうなの? と尋ねたい気持ちになる。
 
ジャン・ジュネと付き合うのは、サルトルと付き合うのとは違うよ?
(いや、もちろん、本気でサルトルと付き合うのはまた違うことで、ただ、サルトルくらいは思想史やるなら当然よんでるよねっていう意味とまったく次元が異なるってことを言いたいのだな)
それは、レイフェル・アロイシャス・ラファティと付き合うことと似ているし(これはいずれどこかで書くことになる)、既存の価値観の向こう側へいくことだから。
 
それから、これがいちばん言いたいことなのだけど。
わたしよりSIMPLETONさんのほうが、その背景を鑑みると、ちゃんとした「覚悟」を強いられるはず。わたしがジュネを読むのと、SIMPLETONさんがジュネを読む意義はだいぶ違う。なんにもわかんないまま拉致られる(笑)ように邂逅したわたしの無邪気さとは無縁、ですよね?  

無垢という名の罪なき弱さを選べるとは思えない。
以前からいうように、フランス文学を読むのに「無垢」や「無邪気」ほど相性の悪いモノはないのですよ。
そして、SIMPLETONさんがジュネを読むというのなら、「無意識」とか「無邪気」とかいう日本的な曖昧さ幼さ可愛らしさで手を触れようというのは、少なくとも、わたしには許せない。もちろんわたしはこんなことを誰にでも言うわけではない。ひとは勝手に本を読むし、あっちから目指してやってくる、そうして出逢うものだと知っているから。わたしはそれを、「運命」という。
そんなわたしがこんなことを言い出すのは何故かは、ご自身がいちばんわかっているでしょう。わたしが口にするまでもなく。
 

それでなお、こうして余計なことを敢えて言うのは、ものを書くときにそのひとの「声」にウソが混じるのが、わたしにはどうしても耐えられないから。わたしはそういう文章を今後よまされたくはない。我侭だが。でも、わたしはものすごくワガママなのだ。欲望に正直とも言う。
 
そして、ウソを書けば誰もがわかる。わかるから、文章を書くのは、なにかを表現することは、とても怖いことなのだ。それは、とうにご存知のことでしょう。
 
さらに言い募れば、ここが、たぶん、SIMPLETONさんの「思想」の要になるだろうから。どういう道を選ぶのか、どこに足を置くのか、見定める時にきている。
べつに、同じ道を歩んでほしいとは露とも思っていない。
ただ、自分の立ち位置は確保しないと。
わたしとは、「つくり」が違うと思うので。ぶれない、とわたしに言い続けたのだから。
 
つまり。
「師匠」と会って、おはなししてくるといいと思う。
チャラチャラふらふらしたわたしではなく、本当にアンガージュマンを生きた(生きる)ひとびとのそば近くに接したひとに。
わたしの言葉は弱い。まだ、自分の人生をきちんと生きてはいない。
そうではないひとがいるのだから、そしてその機会に恵まれているのだから、いくべきだと思う。
ジュネを読む前に、たぶん、「生きた言葉」に触れるほうが、SIMPLETONさんの為になるはずです。
ジュネを読むのは、そのあとで考えることではないかしら?

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にしても、オレ様ってばえらそうだ(笑)。
でも、「読み」を外してはいないだろう。そのくらいの矜持はあるのだよ。へへへ。
そして、こんだけのことを口にしたら、自分のほうこそ覚悟をきめないといけないってことになるしね。
SIMPLETONさんに感謝しています。
『遍愛日記』を書けたのは相棒のおかげで、それを外に出せたのは、SIMPLETONさんのおかげと思っているのですよ。

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ではでは、来年もヨロシクね~ん!!