~「仕事」というか~
「女性表象」についても考えて、勉強している。それがいわゆる「女嫌い(ミソジニー)」とセットになってしまっている点も含めて。
(とりあえず、カッシーラー『人間 シンボルを操るもの』(岩波書店)がようやく読み終わる。かんたんだと言ったけど、ずいぶん時間がかかっていることを考えると、一般書とはいえやはりそれなりに内容が充実なのだ)
そして、「女性」だけじゃなくて、「性的なもの」の「記号・表象論」または「クリシェ」的なるものを「解体」したいと、小説を、書いている。
たとえば、「女子高生の死」などが小説内で語られる場合、それは「若さと清純と美」の喪失で、「不幸」という表象、または便利なクリシェ記号扱いなのだ。
でも、それはだから、「記号や表象」だ。ほんものの、ほんとうの、リアルな現実の「女子高生」じゃない。彼女の名前は、そこにない。固有性を剥奪されている。
そしてまた、「高校生の女性」≠「女子高生」だし。その名付け自体が、胡散臭い。
ってようなことを小説で書いた。
これは、そうやって地道にやっていくしかないのだと思う。
昨日ひさしぶりに酒見賢一さんの『語り手の事情』のおはなしをして、またいくつかのダイアリを読んで、思いを新たにしたので書いておく。
