id:florentine は
florentine(磯崎愛)のことを語る

いえいえ、どういたしまして~。いらっしゃいませ。
 
>つまり、名前と姿かたちが一致している必要性があるかなしか、という話でしょうか
 
はい、極言してしまえば、そういうことです。
たとえば、ヴィーナスやニンフというタイトルの絵はこの世に数限りなくありますが、それらはとりあえず「美女・美少女」であることに変わりはありませんが、そしてもしかするとモデルもいるかもしれませんが、彼女たちの固有性というものは剥奪されています。
 
また、いっぽうで「肖像画」についても、女性の場合、なんらかの「美化」「理想化」がされている可能性は否めないところではあります。
イザベッラ・デステというルネサンス時代の侯爵夫人は自分の絵姿をたくさんの画家にかかせています。そのどれがいちばん彼女に近いのかっていうのは、けっこう見定めるのは難しいかもしれない(笑)。
いまちょうど「ハプスブルク展」で日本にきているティッツィアーノの『イザベラ像』とレオナルド・ダ・ヴィンチの素描(横顔)とを並べて、それが髪型や横顔だからという理由はさておき、同一人物であるとみなせるひとは、たぶん、少数でしょう。
イザベラというひとはほぼ事実上の施政者で、絵画を政治利用したと言えるかと思います。このあたりは、塩野七生さんの『ルネサンスの女たち』に明らかです。
(画像ソースはれなくてすみません)
 
他に、女性の肖像画が描かれる場合は、お嫁入りのため。有名なところでは、ベラスケスの描いたマルガリータ王女ですね。お見合い写真がわりのせいもあり、彼女の場合は、おそらく本人そっくりだったと思われます。
 
と、今わたしは簡単に言い切りましたが、美術研究においてこういう安易な振り分けはもっとも忌まれるものであるとだけは、お伝えしておきたく思います。
ことに、前回ご紹介した本のレビューにもありますように、イコノロジー自体に潜む西欧主義(そこにある家父長制、ロゴス指向、階層主義等)を批判する動きもある昨今、より繊細で緻密な考察や論議を重ねていくのが本筋と、わたし自身も考えています。
 
それから、前回の参考文献はいわゆる美術専門書なので、
より読みやすくて現代の事情に即している本を。

大野左紀子『「女」が邪魔をする』(光文社)の、ご自身の紹介頁。
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20090624
いちお、わたしの長文感想(笑)。
http://ainokarakuri.blog42.fc2.com/blog-category-24.html

うえのダイアリにも書きましたが、この本の第九章『「女」はどこにもいない』は、女性が表象、記号、ファンタジーである諸相に鋭く切り込んで書かれていますので、わたしには大変面白かったです。
 
それと、いま見たら参考になりそうな本を大野さんが紹介されているので。
『欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差』を読むhttp://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20090629/1246290225
(未読本をおすすめするの無責任ですが、なんとなく問題意識は重なりそうな気がして。わたしも探して読んでみようかな、と)
 
>西洋美術史における美女/美少女表象の(流行の)変化というのは、あるていど一定の方向性とか連続性が読みとれるものなんでしょうか?
 
はい、西洋美術史というのはキリスト教美術史であるという側面もありますので、前述したマリア像の変遷である程度のところは、読み解けるものと思います。(が、正直に申しまして、それを述べてくださいといわれると腰が引けます。こういう大仕事は素人がやるには危険なので……)
また、ルネサンス期に関しましては、詳細な女性表象論の本があるので、それもご紹介できるかと。
 
と、ここでいったん失礼いたしますね。
お付き合いくださりありがとうございます。