~休憩しながら、GLについて考えてみた(ら、ただの憤懣噴出になっていた。しかも、普通のことしか言ってない。ああ、もう、ほんとにごめんなさい><)~
名前や呼称は大事といつも言っているとおり。
わたしのなかでは「百合物」という呼び方が、あんまり好きじゃないのだな、と。
ガールズ・ラブならいいのかというと、それもちょいと違うんだけど。まだ、こちらのほうがボーイズ・ラブときちんと並んでいる感じがして、非対称差が少なく思えて飲み込めるし使いやすい。
この躊躇いは、たぶん、「百合物」という言葉に男性の性的視線を感じすぎてしまうからかも。(被害妄想チックでしょうかね?)
んで、なんでそういうことを思うかというと、わたしが普段よんでるのは商業GLではなくインディーズのWEBサイトGLで、同性愛者(やバイセク)の女性たちが運営しているとこだから、かなあ(といっても、数件しか頻繁に読むサイトさんはない)。
でも、ブログのコメントやメルフォお返事のようすをみると、読みにきているひとたちはイロイロみたい(あたりまえだ!!)。
と、いま「あたりまえだ!!」と突っ込んだところが、なんというか、キモな気がする。
可愛い女の子をひたすら愛でたいというヘテロ読者もいるだろうし、自身で感情移入して読む女性もいるだろうし、ゲイやバイの男性も読みにきてるようだし、わたしのように「恋愛物語」ファンとして楽しむひともいるわけで、「少女」や「女性」の表象をどのように消費しているかは、その作品によっても違うし、読み手の気分にもよるような気がする。(←そしてなんか、これ、わたしは何にも言ってないですね 笑)
書く側には「モデル読者」がいるかもしれないけど、実際問題、その想定外の場所に届いてしまうのが「創作物」で、これはもう、天の配剤的シロモノで、ほんとうによくわからない。
良くも悪くもどっかに到達してしまうのが作品ってやつなので、もうほんとにイロイロ無理なのだ。(なにいってるかわからないでしょうが、はい、自分でもよくわかりません)
ちなみに、わたしはあるサイトさんに嵌まったのがGL読みのきっかけ。マリみてとか、世のブームとは一切関係ない。もちろん、潜在的にコバルト小説を読んできたわたしにはGL受容体なるもの(なんでしょ、それ? 笑)が存在していたと思う。し、また、自分自身で書いてもいるのだから当然かもしれない。
でも、書いているからといって必ずしも世の中のソレが好きかというとそうでもないこともあって、ある種の「自家発電」「必要は発明の母」的動機が大きいこともある。
(わたしはとりもなおさずレンアイモノが大好きで、世の中のいろんなカテゴリーが邪魔くさくて仕方ないのだ。オレ様の好きなように書かせろ! ゾーニング・レイティングって逆差別じゃん! という気持ちもじつはあるから、いろいろ大変なのだ。嗚呼……)
それから、GLを読むときに自分が抱えているものは、やはり男性の視線から自由になりたいという意識かも。あとはそれと同様に、ミソジナスな世の中から逃れたいという希望とか。さらには、男女で恋愛してるとこのあと結婚とか出産とか大変だよなあって思ったりして覚めないですむとか(苦笑)、女性同士なら規範から外れてずっと隠れて暮らせるのかもなんていう甘い願望とか。少女時代への追憶とか。
そういうファンタジー的読み方と同じように、現実の生活上の差別やストレスに追われる女性たちの不幸と幸福をわが身のように享受することもあるし、色々(でもこれは、身近に同性愛者のひとたちがいるからかもしれない。まるきりファンタジーとして切断操作しまくりで読むひともいるからなあ)。
ていうか、世の中にはいろんなレンアイの形があるんだから、創作上の決まりきったファンタジーの形に押し込めなくてもいいじゃん。もちろん、そういうわたしの作品がリアリスム小説かというとまったくといっていいほど違うのだが、そこはわたしがきちんと理解したうえで色々考えているところだ。
たぶん、ジュブナイルという名前から「ラノベ」に変わっていく過程で、おそらくそこで削ぎ落とされてしまったのは「自然主義的リアリスム」ではないかと(きっと、誰かがこういう考察してるね。大塚先生とか?)。
「欲望という名前のファンタジー」を作品に着せることそれ自体は悪いことではない。たぶん、それを世間では「萌え」と呼ぶに違いない。自分にその「感覚」が備わっていないので、扱いに困るコトバだが。よくわけのわからないことばは使えない。
わたしはいい年なのにいまだにオトナになれなくて、いろいろ困ったりしてるのだが(いや、困っているのは周囲のひとで、わたし自身はじつは困ってないに違いない。きゃあ、ゴメンナサイごめんなさい!)、さいきんふと思うのは、「おたく」というひとびとのファンタジー好きはよいとして(ていうかこの世の誰よりもきっとわたしがもっとも大好きなくらいだが)、老いという問題は間違いなく「自然主義的リアリスム」でしか語りえないもので、いや、語りえないというのはウソだな、コトバは精確に使いたい。ん~、と、注視して戯画化することや、エレガントに表現するにはかなりの高等テクニックが必要とされるであろう状況、とでも言うのがいまの自分に相応しい語り方だな。で、つまり、その事態を、どうやって受け入れたらいいのかわからない。
サブカルチャーというものが「コドモ」のものだった時代はもうとっくに終わったのだと世界は言っていそうな気もするけれど、たぶん、わたしはそういうふうに思い切れていないのだろう。
「わたしはおとなにはならなかった。ただ、みっともなく年をとっただけだ。」(レイフェル・アロイシャス・ラファティ)
そんなわけで(どんなだ??)、成熟は概念としてナイものだと笑い飛ばせても、老いは来る。
la jeune fille printemps(春のような少女、とでも訳すかな?)
ひそかに、わたしはここらへんに根っこがあると思っている。
(だから、例のエントリはそういう意味でも感情的な是非はともかく、感覚としては納得できないものではない)
いまさら新しくもないサブカルと大文字の文化のオトナコドモ対立に辿り着いてしまったが、「萌え」と「kawaii」いうキイワードも含め、サブカルの逆襲なるか、と淡い希望も持っていようかと(わたしはハイカルチャーも大好きだけどねん☆)。
ただし、そのさいオンナコドモの側に立つのは、この世界「全員」であるとだけは申し添えておこうかなっと(笑)。
florentine(磯崎愛)のことを語る
