~小説を書く行為と自意識と承認欲求について思うこと~
(恥をかくのも仕事のうちと開き直る)
http://anond.hatelabo.jp/20091109233908
と、この文章につけた自分のブクマ
「 同人, communication, 自分語りするヨ!
お、お疲れ様でございます。わたしは送ってもらった小説におもきし本気でレスしてドン引きされてしまう厄介なひとです。逃げてください></そして、この暑苦しさに逃げなかったひとが今のサークル相棒。」
てなわけで、わたしはこの数年、ひとさまをドン引きさせ続けてきた華麗すぎる実績(いやあ、すごい実績アルよ! エッヘン☆)の持ち主なので、なにをかいわんや状態なのだが。
わたしには、サークルの相棒以外にもお付き合いのある小説書きの友人がいて、月イチで原稿用紙30~150枚くらい送ってきてくれているので、こういうのってべつに変なことではないのじゃない? みたいな気持ちもある。
もちろん、ここで問題とされているのはひとさまとの距離感、いわゆる「コミュ力」などと呼ばれるものの有無や巧拙であるとは承知しているのだけど(空気はちっとも読めませんが、コンテクストはバリバリ読みますゼ!)、そんなのわたしには難しくてよくわかんないから(わかんないよ! と、逆ギレする。だって、マナーやエチケットなんてあっても肝心なところでは役に立たないもん! だから怖いし面白いし傷ついてやめたくてもやめられないんじゃん!)、自分のわかることだけ言うと、「書いたら読んでもらいたいのは当たり前」ってことだったりする。
そこはそうだよ。
わたしはこの世で最後の人間になっても書いてると思うけど、それは、もしかすると異星人が解読してくれるかとかタイムマシンに乗った誰かが見つけてくれるかもとかいう、超絶馬鹿らしい希望が自分にはあるからだ。
(バカです。バカだけど、バカなくらいでちょうどいいのだ。報われること少ないことは、賢くてはやっていかれない)
読まれもしないものを書くもんか。
少なくともわたしはね。
たとえば自己慰撫で書いていても、それがひとさまに「届く」ことの素晴らしさは喩えようもない。
昨日ご紹介したテッド・チャンのインタビューのように、あれは、わたしがいつも思ってることだもん。
どっかに「届く」。いつか誰か絶対に「届く」。この希望がなければ、わたしは書かない。
ただ、意外と忘れがちだけど、「作品=自分」では絶対にない。
作品が認められて理解されて愛されようが、それは「わたし」ではない。たしかに、生身の自分自身より「わたしラシイもの」ではあるかもしれないけれど(まったくそうじゃない作家のひともいるしね)、それは一概に否定しないのだけど、でも、「芸術は長く、人生は短し」。
「わたし」は100年と生きないであろうが、うまくすれば「作品」はもっと長く生きるのだもの。わたしにはコドモがいないのでその比較もできないけど、ん~、「授かりモノ」という点では、似てるのかもしれない。でも、「分身」とは思わないなあ。わたしより、「作品」のほうが大きくないとイヤだ。そうじゃないひともいるみたいだけど、わたしは、自分より作品が立派であってほしい。わたしなんて取るに足らない人間だってわかってるから、どうしようもなく臆病で愚か者だと知っているからこそ、そうじゃない、素晴らしいものが書ければと希う。
わたしはほんとに諦めが悪くて、「何が言いたいのかまるでわからない」とか「ここには小説の核になるものは何もない」とか「もうやめればって言いたくなった」とか「普通」とか、ホント酷いことたくさん言われてもやめないでいられるのは、どこかでちゃんと、「小説」と「自分」の「切断」が出来ているからだと思う。
(余談になるが、この「切断」のない小説も小説足りえるのがその存在の懐の深さの証左である。ただし、「書き手」そのものが面白い人間でないときは読むに耐えうるのは「一作」しかナイであろうと断言してみる。人間、一生にいちどは小説が書けるっていうアレですね。べつにこれはわたしだけの意見ではないのであしからず)
てなわけで。
もちろん、色んなこと言われればそのたびに泣いて傷つくのだけど、そういうときに「わたしという人間が否定されたわけではない」というしっかりとした都合のいい認識は持っている。というか、そこがイコールで結ばれていてはいつまでたっても上達しないに違いない。
わたしは巧い書き手ではないのだろうが、ARSの語源が「技術」であることは知っている。
物書きは、言葉の技術(魔法)を使いこなす「魔法使い」のようなものであって、「魔法」そのものではない。あいつは使役するもので、こっちが飲み込まれちゃダメだ。そこは情け容赦なく「切る」がいい。だが、それでも追ってきてこちらをとっつかまえて書かしめるほど大きいのが「魔法」であって、そのときはもう、奴隷のように使われてやればいいのだ。だいじょうぶ。どんなに手酷く扱われようが、そいつはあなたを殺さない。ただ、「書いて生きろ」と命じるだけだ。
わたしが増田さんのお相手に言いたいことがあるとすれば、以上のようなはなしである。
ひととの付き合い方は謎だけど、「小説」との付き合い方は、先人たちの小説について書いた本を読むと、いろいろ慰められるし励まされるし(同時に自分の能力のなさに泣き喚きたくなるかもしれないとは書いておこう)、「孤独」もけっして悪いだけのものではないと、そう感じられるのでは。
そして、こんな文章を書いていいのは功なり名を成したひとの特権であると認識しつつ、恥はかいてナンボ。と開き直る。
すべての物語とその語り部に愛をこめて!
florentine(磯崎愛)のことを語る
