id:florentine は
florentine(磯崎愛)のことを語る

おっしゃるとおりですね。
恋愛の「教化」的側面は、「日本における西欧文化受容」と「西欧にあったときのキリスト教教化&ブルジョア社会教化(強化?)」のふたつの側面からおっていったほうがいいのかなあと思っています。
それともういっこ、大人への通過儀礼(試練)、またはオトナ社会への参与としての「結婚」または「恋愛」。これは、日本も西欧もなく、民俗学的人類史的な諸相、人間の「再生産」の問題だと思います。
「日本における輸入品としての恋愛受容」「西欧社会での『恋愛』の歴史」「人類史における結婚と性(生殖)」。
日本で「恋愛」ということばを考えるとき、うえの三本柱に、「日本の結婚と性愛の歴史」を絡めて考えるといいのかなあって。
でもこれ、あたりまえすぎて、じつは何も言ってないのと同じですね(汗)。
 
それから、谷崎のゲーテ賛辞をよんで思い立ったのですが、教養小説としての恋愛物語受容という水脈があったのではないかと。
だいたいこの手のものを読むと、「恋愛」はキリスト教とセットで語られるのですが、それはおそらくある一定のこたえを出してくれると思うけど、過大評価の部分もあるのかなと、ちょっと穿ってみたり。
聖俗両方でとらえないと、片手落ちですよね。
 
「鹿鳴館」なんてものは、男女の社交としての「ダンス」を輸入しようとしたわけで、あれは明治政府の意向とは違って(あれ、違わないのかな? 笑)、「恋愛は社交である」っていう至極当然の意識を印象付けたと思うのですよ。
けど、その後つづかない、と。 
国民国家政策でそうしたのなら、完遂すればいいのだけど、うまくいかない。
 
前にもおはなししましたが、谷崎や漱石が言うように、西欧列強にちょっかいかけられてしまった日本の不運、悲劇のヒロインなのでしょうがないのですが(あ、こんなことをいうと怖いひとたちに叱られるかも)、殴られて関係が始まったこの国が今後どうやって立ち回れるのかは、正直、アヤシイ。
そこで自尊感情をとりちがえて植民地政策みたいなことをやらかすのは、ホンモノの「帝国」でもないかぎり拙い仕事です。わたしはきっとマキアヴェリストなので善悪で政治を語るのを好きません。それでこういう露悪的な言い方をしますが、だからといってこの国が滅んでもいいと思っているわけでも、このままでいいと諦めているわけでもなくて、相手を殴り返すことでもさらに弱い他者を搾取するのでもない方法で、自分の足で立てる方法を模索しようよ、と言いたいのだと思います。
外交戦略と恋愛はともに「関係性」という問題に集約されるので、「戦争と恋愛」アナロジーで語られ尽くされてますが(笑)、モテ技術みたいなものが必須だと真剣に考えるんですよね(笑)。
わたしは、日本国というものは「国」にさえなっていないとため息をつきたくなるけれど、この風土(いま死語かな?)や文化そのものはとても好きなのです。
(でなければ、キモノ着たりしませんよねv)
 
はなしが大きく迂回してますが(笑)。
そして、「房事抜きの恋愛」は、日本では考えられなかったのではないかと思います。偏見じゃないと思いますよ~~~。
男性側が主体であったというのもその通りで、平安末期以降、政権とってるのが武家になってしまったから、文化がそちら主導ですものね。
自分の小説で書いたせりふですが、平安期の「色好み」文化の消失は、たいへん勿体無かったと思ってますデス。あれが残っていれば、女性の地位も高かったとまで思ったりするくらい(まあ、武家社会がきてしまったから、アレだけ残るなんてことはありえないのですが。こういうのを、ファンタジーというのですよね)。
 
「性愛」を禁忌とする概念は、神道的「穢れ」方面ではあるにはあったのでしょうけど、日本の神様は強制力が弱いんですよね。禁止されないと、燃えません(笑)。と考えるのは、わたしがすでに西欧文明の洗礼を受けてしまったせいでしょうね。
カトリックはその点、侯爵様を生み出した土地で、その後のバタイユさんやらなにやら、豪華絢爛の禁忌尽くし(笑)。
あれはあれで面白いと思ったりしちゃうわたしはきっとヘンタイさんですネ☆