~絵空事としての虚構のはなし、なのかな?~
わたしの曖昧な記憶によれば、大江さんとソンタグの対話において、作家は知らないことをかくのか知ってることを書くのかという問いを大江さんが投げるのですが、ソンタグはあっさりあの調子で「両方とも同じでしょう」みたいに返してはなしはそこでおわったはずで、たぶん、このへんは哲学的命題として古代から繰り返されてるのでしょうがわたしはそのへん不勉強なのでスルーして(だって、このへんむつかしいんだもん! そして両者ともわかってて書いてるんでしょうし)、言語の虚偽性というか、裏切り機能とでも言えばいいのか、そらぞらしさ、うつろさ、逸脱、彷徨、なんと呼べばおさまりがいいのかわからないあの「つくりごとかん」というのは、しかしながらいっぽうで巧く使えばつかうほどにこの現実、リアル、そうしたところでは絶対に到達不可能な何がしかのことどもに行き着くことが可能で、むちゃくちゃ乱暴に言うと音楽(全体性と相性がいいがゆえにキニャールはナチに加担した唯一の藝術とまで呼んだりしているようにわたしは思う)や絵画(具象はことに個別性と相性がよく、視覚は差異を容易に把握するがために他者性に敏感である)といった藝術とはまた違う位相にあって、個人が把握する時空を揺るがすことも可能だし、そのひとの独自性、または身体性を剥奪することも付与することも自由、記憶さえも操作しうるのは「言語」がそもそものところで抱え持つ不安定さと堅固さ、呪術的魔術的機能によるものと小説家はこころしているはずなのである。
というこの文章を句点なしでえんえんと書けるていどにことばというのは意外にユルユルなものであり、とはいえ究極的には線上性にとらわれているのだから時系列と情報には前後なりなんなりが少なくとも備わっているのではないかと思われましょうが、これが、チガウ、んだなあ、ほんとに凄いものかきはそこで魔法をつかうのですよ、これが。
ああ、わたしも魔法が使えるようになりたい。
たぶん、ほとんどの小説家は自身の「リアル・現実」を書く際にはかなり慎重になる。けれどそれはそうしたことを書かないという意味ではけっしてない。個人的な経験を個人的なものとしてただ記録することに満足しないがゆえに、技巧を凝らすのが小説家の本性と思う。いったん事実という小さなもの(または抱えきれない大きなもの)を破壊して(消化して・昇華して)、言葉でもういちど積み上げる作業をしないと「作品」にならないがゆえに、ああいうめんどくさいことをするのですよ。
あとはまあ、じぶん、という存在への拘りというモンダイもあって、これは近代というか「小説」というものの成り立ち自体と関係があることで(小説はあくまでも近代以降のものというのが定説である点は見逃してはならない問題と思う)、また「個」の問題と日本語の問題の限界というか逸脱というかは三島が鴎外漱石または四迷そのほか翻訳者たちが感じたナニモノカであって、三島のつまづきともよびたい「天皇制」も言語(日本語)と究極的には関与しているとわたしは思うしそういう論考もあることだろう。身体性、三島の肉体の問題も言語のそれと深く分かちがたいもので、彼はけっきょく「失敗」したのだといわれたら頷くほかない程度には無惨なものなのやもしれんが、しかし敗北というものはいつでも美しく、傷もまたそれゆえに大切なもので、わたしはだから彼が好きなのですよ、いつだって。
florentine(磯崎愛)のことを語る
