こちらでもこんにちは!
じつはわたしもその「読み」で読みました。>苦いもの&マニフェスト
自身の蔵書に自作をいれようとしなかったボルヘスらしい言葉ですし、ほんとにこう「救われない」感ありありの、それこそゴンブローヴィッチだったかが「辛気臭い」と称した(ていうはなしだったと思うけど、何で読んだのかすら忘れましたーっ! 勘違いかもしれません でも、ゴンブローヴィッチなら言いそう! 笑)ボルヘスの真骨頂だと思うのですよ。
そういえば、50年たたない本は読まない(でしたっけ?)と言い切ったのもボルヘスですし、創作の態度、つまりマニフェストとしてそのくらいのこと思ってないと彼らしくない(笑)。
でもですよ、
ボルヘス(1899年8月24日 - 1986年6月14日http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%98%E3%82%B9)がまだ生きている1980年にウンベルト・エーコの『薔薇の名前』に、またジーン・ウルフの『新しい太陽の書』のなかでも「盲目の図書館主」として登場させられてしまっていて、これはもう、この偉大な「創造主ボルヘス」をどうやっても「架空の存在にする、つまり永遠不滅のものにするための呪術」をエーコ様とウルフ様が執り行ったとしか思えないのですよ。ましてやそれを、ボルヘス自身が予見していた、くらいのことを考えるのが「小説家の業」というものでござりますよ、ははは。
そうだ、前から気になってるんですが、この『薔薇の名前』と『新しい太陽の書』についてはちゃんとした文学批評を誰か立派なひとがすべきだと思うんですよね。ふたりともご存命なわけですし。
というか、あれが論じられるだけのひとがどこにいるのかちょっと謎ではあるんですが、でも。やってほしいんですよね~。
まあそれはおいて、
ボルヘスは超絶かっこよくてズルい大人なので(ああ、ほんと、カッコイイ!)、ああいうカッチョエエ痺れる~な小説を書くわけですが(はじめて『伝奇集』を読んだときの衝撃は忘れられませんよ)、わたしは、ああいう落ち着いた態度とか情熱に裏打ちされた艶やかな諦念というものを自分が持つ、持ちえることは今後もないだろうと思うのです。彼は神曲を愛してますが、愛して陶酔して大事に大切に味わってるわけですが、それを超えたいとかは思ってないだろうし、ダンテがライヴァルだとは考えていないでしょう。当たり前です。それでいいのです。彼はボルヘスですし、それがわたし自身にとっても非常に正しい姿勢であるとは思うのですが、
たぶん、
ゴンブローヴィッチは「悔しい」んですよ、同じようにダンテを凄く愛してるみたいですが(残念ながらダンテについてのちゃんとした長文は未読です。翻訳があったかもしれないですが、雑誌か何かだけだったような)、でもダンテに負けたくないって思ってるはずなわけです。
わたしは、気持ち的に、ゴンブローヴィチにちかいだろうと思います。落ち着き払ってはいられない。
自作を一冊だけでもじぶんの「永遠の図書室」に入れて、わが愛する宝石のような書物の隣にそっと並べてあげたいです。なんだったらドアのすぐそばでもいいんですけど(このへんの弱気さがわたしだわ!)、あそこに入るのは入りたいんですよ。ラファティやジュネやカルヴィーノ様、明日お目見えするキニャールとか、そのほか色々な作家の作品の隣に並んで永遠を見たいのですよ。
と、
思うとですね。
あ、
すんごく長くなったついでに、長いから「勝手に引用」しないですが、書いておくと、
わたしが、
とりもなおさず念頭にいれている書くときのスタンスは、
『新しい太陽の書』の『拷問者の影 33 五本の脚』でセヴェリアンが長々と処刑に事寄せて「書くこと」について綴っているところです。
あれは完璧主義者すぎてどうかというふうにも思うのですが、あれくらい自身を律してないと逆にやってられないよなあと考えたりします。
ああ、
ほんのはなしするとたのしいですねー!
勝手に引用のことを語る
