どうもありがとうございます。
一読し、「この中盤まで」のところで思わず吹き出すほど受けました(笑)。おおっ、ほんとだ! と >稀
そのことに気づかないくらいわたしがボンヤリさんなのか、はたまた、うささんに甘えきっているのか謎ですが、ほんと、ですね。ちょっと今、呆然としています。
(といいながら普段、ここ、どこで息つげばいいのかしらと案じながらも、でもこれがいいからゴメンナサイ、えいやっ!て書いてるひとなので。えへ☆)
そして、せっかくなので、ということで、
今回の小説、というより、わたしが「小説」というものについてどう考えているのかちょっと綴ってみますと、それはあくまでも「文章(テクスト)」である、ということになるかと思います。で、このへんのことはすでに、うささんはお察しのうえで上記のようにお書きくださっているものと推察いたしますし、なので今さらくだくだしいような感じではありますが、ちょっとじぶんの考えをまとめる、的な意味で開陳してみると。
わたしは基本的に、それが黙読によって読まれるものとして「小説」を書いています。
たとえばですが、うえの文章でわたしが「はたまた」の後ろに読点を打つのは、「うささん」の名前と平仮名同士がぶつかるのを嫌うからです。実際、わたしがその文章を音読したら読点、はいりませんw
そんな感じで、句読点の打ち方や文字の並べ方には「視覚優位」でのぞんでいます。音やリズム、調子など、小説のうねりや「運動」をもたらすための印象付け、動機付け、その他についても自分なりに「音」というものに十分に留意はしているつもりですが、それが「朗読」というかたちで「開かれ」ていくときに「差異」が出るのはある意味では必然であろうと思うのです(今回のことだけでなく)。
なので特に小説世界の設定その他で違和感があったり、絶対にこうじゃないと、みたいな拘りがなければ(ここはハシゴじゃなくてカイテイと、どうしても読んでほしい、というような)、読んでくださる方のいいように、とわたしは思ったりするのです。
で、いま、「開かれて」と何気なく書きましたが、「黙読」というのはひとが独りで、あくまで孤独のなかで文章と向き合うことで、「朗読を聴く」という関係の「開かれ」具合とはまた少し、いえ、もしかするとまったく、チガウものだと思うのですね、わたしは。
ではいったい、ここで読まれ、音読され、絵画に起こされた「小説」というものの「正体」は何なのか……
おおげさにいうと、この連載で、そういうことまで考えながら書いています。いきなり中間小説とか言いだしたのもそういう「小説」をめぐる試行錯誤の一貫で、こんかいのコラボのおはなしをいただいて(挿絵をつけてもらうといった経験は過去にも何度かあったのですが)、朗読は初めてで、ものすごく刺激になっています。
例をいうと、あの「同じ」の繰り返しなんてものは、一般小説においては禁断の技ですから(笑)。ふつう、小説家はなにかしら意図がないかぎりあんな真似はしませんが、わたしが、このわたしが(笑)、聴いてみたかったんですよね。
そういう遊びが出来るのも、なにはともあれ、うささんのおかげかと思います。
書き手としての自己主張や贅沢(ワガママ!w)はこのように十二分にしてますから、また何かありましたらよろしくお願いします!
では、今後ともよろしくです☆
うさのことを語る
