~さらにさらに、勝手に引用(hebakudanさん)~
「たとえば薄暗い井戸の底でも覗き込むようにして自分というものをよくよくたぐり寄せようとする人のこんな文章に私はその人の「自前」を見る。「自前」ぐらい書き手を支える強い筋肉はなく、その力が極めて脆弱な人を指して谷沢永一は「壁に手をついて話す人」と言った。まさしく筋肉のついた言葉だと思う。」
「自分を抑制してみない人は他人の側の抑制のほどを解さないだろうように、自分の全部をあけっぱなし出しっぱなしにしないと他人に何も伝わらないと思う人って、自分が読む立場になった場合でも他人が控えめに示す小さな断片文にはおよそ洞察力もクソも働きゃしないんじゃないかなんて時には思ったりする。」
思い出したので。
hebakudanさんの言葉でもっとも凄まじいのが、「結局、人は自分が書ける水準でしか読めない」というそれで、「うあー、この世の《真理》すぎるよ、まったく!!」と嘆息したことが幾度もある。
たとえば、ジョイスのふぃねがんずうえいくが凄いという事実はべつに文学をこころざしてないひとが読んでも「ワカル」であろうが(ていうかそのまえに読めるのかとかいうツッコミは今はなしで)、どこまでどう凄いのか本当に「ワカル」には、あれが少なくともどう成立したのかを追えないとならないわけで、そこで行われている技術を会得なり感受なりできないと本当の凄さはわからないはずで。
だから、この言葉は痛いとか刺さるとかいうレベルじゃなくて、太い杭でからだの中心に貫き通されたというか、いまをもってどころか恐らく死んでも手放せない言葉であろうし、常に、どんなときでもわたしの中に根付いている。
まあ、わたしはわたしできっとやれることがあるからそこへむかってガムバルさ。ははは。
florentine(磯崎愛)のことを語る
