という乱暴なコトバを吐いておいてなんですが(作家の顔の美醜が作品に及ぼす影響というより本当に問いたいのは人生における愛情やら性的充足やらと作品の関係なのだがそこまでくると戯言やゴシップではなくすでに作家論の領域になるので深く問わない)。
ジャンル・カテゴリーによっては「うまく」描くことで体をなさなくなる場合もありうるし、流れを損なう事態もあるわけで、そうそうコトは簡単ではない。
しかも、これだけノー(ちがう)といいつづけるとなると自身はどうするつもりなのか、つまりはそういうモンダイなわけだけど、それもまた単純にこう、とはいかないのである。
まあ、だからウダウダ考えているのではあるが。
ひとを殺したことのない人間に殺人のはなしが書けない、なんてことになるのはオカシイと誰もが反論したくなるはずのことを、どうして男女の問題の際には穿り返さねばならないのかというと、そこに、ある種の「規範」「伝統」によって培われた極めて有用な「技術」があるからに他ならない。
とはいえ、三島の時代には、賢しらにはなす女性には魅力がないなんて恐ろしい偏見を語ってもさして小説技術的にはモンダイはなかったであろうが、いまの時代、おそらくはその真逆の態度でのぞんでこそリアリティのバランスが取れるようになっているとわたしは思う。
けっきょくのところ、じつは「魅力」の提示のモンダイに尽きる、の、か、な。
魔法、か。
うん。
florentine(磯崎愛)のことを語る
