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勝手に引用のことを語る

「ラブレー先生は、フローベールとはちがって『わたしが生きているかぎり、自著に挿絵は入れさせません。(中略)絵があると、観念がそこで閉じられてしまいますから」という証言を残してはいないので、挿絵も、少しだけ入れさせてもらった。」
ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル 1』宮下志朗訳 解説より
 
「ただし、底本とした」、「同時代のものだけに限定した」と続く。
わたしはたいそう意地が悪いので(そうでもないか。これがフツーだよね? ていうか、礼儀?)、渡辺一夫訳と並べて読んでるんですが、いや流石、宮下先生! モンテーニュの書棚にミランドラの書を探す情熱がおありの方はやはり違うですよ。
あたりまえだけど、本を読むという行為がいったいどんなものをさすのか、それはきっとひとによっても書物によっても違うのでしょうが、でも、わたしはこういうふうに本を読むひとが好き。ある「単語」ひとつの解釈、用例、そのよって来たる書物まで遡って読む。むろん、「作者」だってそんなのわからない。「言葉」がどこからやってきたかなんて。でも、それを、そんな頼りなく、または奇妙な確信に導かれた、はたまた突拍子もない霊感、そうしたアレコレですら求めずにはいられない、そういう読み方をしちゃうんだよね。なんか、わかる。
さて。
何故にかの文章を引用したかというと、渡辺一夫という偉人は素敵な装丁者でもあったからで、じぶんの同人誌(タイトル忘れた)の装丁をしてたりして(他にもたくさんしてますが。自作の自装丁カッコイイっていう意味で)、そういうセンスに欠けるわたしはなんだかとっても羨ましかったのであげてみました。渡辺一夫がラブレーの本の装丁してたりしないのかなーって。
わたし、昔から夢二に絵をかいてもらった与謝野晶子に憧れてたし、バタイユの「アセファル」みたいな本つくるの夢なんだよなー。詩人とか哲学者とか画家とか集めてわーって本つくるの楽しいよね。あと、アンドレ・マッソン可愛いです。