曙光~ほうじょうのうみをよていしていたがたいようとてつへのオマージュぽい~
いつのことか定かならぬが。まあ、いつのことでもいいのだ。そんなもの、編年体で律儀に記すあの真面目腐ったやつばらの思い付きにしか過ぎない。大事なのは苦痛だ。しかし、「苦痛」とは何であろう。たんに「快楽」の裏返しであるのならこれほど単純なことはない。あるとき、じしんにぶつけられたこの言葉を、それこそ千回もくりかえした夜がある。この、けっして好ましいと思われない「言葉のうちとそと」を捻転し、それでも朝が来るのを酷く滑稽に感じながら、けれど忘れられるよりずっといい、と幼い時分から持ち続けた煩わしい願いを呟いて、さいしょの明かりが地平を染めあげるのに気がついた。そうして、いくど投げかけられても慣れることはないと言いながら、わたしはすでに、それはもうずいぶんと前から我が物となり、今となってはじしんの別の名であるのだとこころした。
つまるところ、定かならぬとき、初めての記憶の再来とも言えそうな、なんとも判別のつかぬ「傷」を、朝日が煌々となめてあらい、目をとじることを許さぬ峻厳さで屹立するのにわたしは立ち会っただけのこと。
太陽は、過誤をくりかえすわたしを燦々とわらい、高々とのぼりつめ、やがて落ちた。
「苦痛」とは日の巡りをいい、あえてその「傷」を時間に刻む努力をさす。
ひとが、洞窟の壁になにごとかかきつけはじめたときから変わらぬ営為をいうのだろう。
