と、書いて。
キニャールは、この本に山のような「仕掛け」を作ってるなーと。
ヴィヨンの名は、フランソワ、だしな。そういえば、山之口氏の『われはフランソワ』すこぶる面白かった。
マリージョゼの贈りものは、当然のこと、某日本の古典が源泉であろうし(それとも。フランス中世コントあたりにあるネタだろうか? いやしかし、なんといっても、谷崎を読んでいる時点でソレであると断言して許される気がするのだな。谷崎は、ガリマール社のプレイアード版におさめられているのだから)。
さらにはカリオンのスペルがわからないが、音だけで「鐘」を連想させずにはおかないし。で、打楽器なわけで。
まだ、ある。というか、まだまだ、ある。
が、それらは言うまい。
ただひとつ、長い時間をかけてのち、『アマリアの別荘』で主人公は「戻ってこれた」。多少なりとも、そこに幾許かの慰めを見出すのは、わたしという読者の身勝手さでもあるだろう。けれど、そういう「読み」も許容するのが読書の懐の広さだと思うので。
「(略)ひとりになると、懸命に別の世界を求めた。夜空を見上げても、星たちは群れをなしているように見える。よそに行きたいという欲望とひとりになりたいという欲望があいまって、彼は憤怒のような状態に沈んだ。もし、彼に自分の気持ちをどう説明するかと問うたとすれば、”旅立ち”という言葉だけで自分を突き動かしているものすべてを言い尽くしていると答えたであろう。もし、彼が抱いている野心について同じ質問を出せば、全世界との絆と断つことだと答えただろう。(略)」
florentine(磯崎愛)のことを語る
