以下、再掲です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・http://h.hatena.ne.jp/florentine/9234099945426207836
「私たちは死んでいくものの疲労については想像が及ぶが、そのはてしない消耗には、読む側の消耗なしにはつきあっていけない。
しかし、マイノリティとしての死者の発信する言葉とは、消耗の言語に他ならないのではないか」
「私たちはいつのまにか死者は静かに死んでいくものだと思いこむようになっている。しかし、これは生きているマジョリティの独断と偏見にすぎないのではないだろうか。マイノリティの言葉を遮断して生きていこうという衛生学がはたらいて、私たちは死者に猿轡をかけてしまっているだけではないか」
「私たちには、血なまぐさい言葉、消耗させる言葉、倒錯的な言葉に対して耳を塞ごうとする傾向が――これはあくまでも傾向なのであるが――ある。
しかし、この傾向になんとかして逆らっていかなければならない」
「文学の疲弊をよそに、言語はいまなお疲れ知らずでいるが、それならば鍛えられるだけ言語を鍛え上げようではないか。マイノリティの声を「雑音」として「破壊的音楽」としてしか聴こうとしない傾向に対する対抗的な傾向を準備するものとして、文学はこれからまだまだ言語にすがりつづけていくしかないのだから」
西成彦『エクストラテリトリアル 移動文学論Ⅱ』(作品社)
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以上。
この本の書評
http://book.asahi.com/review/TKY200804220102.html
去年だったか一昨年だったか、この西さんの小泉八雲(ハーン)論を読んでこのひとの「読み」はものすごく面白いと、「全部よむ認定」した。まだそのときはゴンブローヴィチ訳者さんだと意識もしていなかったはず。そのときから鴎外とハーンの接近(じゃないか、ええと、すれ違い?)だったかなんだかに興味をひかれた。鴎外の衛生学(ドイツの調べたんだよね。余談じゃなくてわたしには本論なんだけど知ってのとおりこのひとは美学方面だけでなく、日本の美術解剖学の祖である)についてもちらと書かれていて、そういえばロンブローゾとか色々と岡田温司さんも何かで引いてたよなあって(何かって、ええと、『ミメーシスを超えて――美術史の無意識を問う』だったと思う。メモとってあるんだが開くの大変だから許して)。何が言いたいかというと、わたしのこころだかアタマだかはいまだに明治開国期、せいぜい大正あたりをふらふらしてるってことなのかもしれない。
あとはつまり、「死者の言葉」を聴くってこと、なのかな。
「幾分なりとも美を意識した書物を書く者は、声の亡霊をおのれに引き寄せてしまう。そして自分ではその声を発することができない」(パスカル・キニャール『音楽のレッスン』より
わたしは生きてるひとの声だってまともに聴けないんだから、困ったものだ。まあでも、耳には蓋ができないはずなので、ついついムンクの『叫び』になりがちな(昨日だか一昨日だかそう書いちゃったしな 笑)じぶんをどうにか律しないと。
勝手に引用のことを語る
