竹内秀実 版画展
果日
ka-jitsu
http://www.tbox.co.jp/tbox/2012/120305A.html
ふだんじぶんの画廊の作家さんのうちでする展覧会をここで紹介することはないんだけど
ID頁だからいいでしょう
今回はそれをのせないと説明にならないので(うささんに引用スターされたので、女王様のいうことには粛々と従うの、わたしw
第11回南島原市セミナリヨ版画展で、セミナリヨ賞に竹内秀実さん
http://blog.livedoor.jp/tbox/archives/52832098.html
そこにも書いてあるように「煙の見える野原」(油性木版・手彩色)は版画芸術の特集「現代版画ジャパン Under 40 years old」(2011冬)にもとりあげられている
これは、いま現在描かれ続けている〈戦争の惨禍〉だ
いたずらに煽情的にならないことを選び取る抑制のきいた感受性、その反面いたましさを力強く訴えかける態度は絵画全体を静謐で、とても美しいものに成し得ている
その画面には「現在」が克明に切り取られ、それでいて「永遠性」をもたたえている、おそらくは「植物」があることで
くりかえし、くりかえされるひとの「歴史」をも思わせる
対象に寄り添い佇むような視線、遠くの煙を臨む瞳、そして小さな花々の慰藉
個人的には、ジュネの小説の表紙であってもいいほどのものだと思う
中ほどの作者がうつっている横長の作品に影響を及ぼした壁画をわたしがみた瞬間に指摘した
あてられちゃったと笑ってくれた
どうしてそう表現されているかについても「的確」といってもらえた
好きなものは忘れない
見逃さないの
それとたぶん、見ているモノがあるていど同じであればそこから導き出されるものはそれなりの範囲でよめる
そしてそれ以上に、それだけのものを「伝え得る」作品であったということ
小品と大作のバランスもいい
ひとによっては大きさとの相性があって画面を制御できないこともあるのに(かのもでぃりあーにを見よ!)、どのサイズでもきちんと仕上げている
去年の作品
http://www.tbox.co.jp/tbox/2011/110516A.html
昨年は実験的であろうとしてそれがバラバラな印象に見えたという評価もあったように思う
わたしはそういうのが好きだけれど、ひとによっては散漫と受け取られる可能性もある
今年は、手法と動機(というのかな?)が混然一体となって凄く伝わると告げたらはにかんで微笑んでいた
一年でここまでいくには物凄い研鑽というか、凄まじい試行錯誤したことだろう
わが身を振り返って刺激的にすぎた
がんばらなきゃって思った、ほんとにもっとやらなきゃと
昨晩はいろいろはなした
パスカル・キニャールの「往古」ということば(キニャールはローマ時代についての本をたくさん書いている)、
植物のはなし「原始の洞窟の玄関広場 アトリウム に描かれた興味津々たる行列の絵。跫音の語り、それは色鮮やかな花の獲物へと通ずる道を告げるコード化された物語を収穫とともに携えて帰ってくる蜜蜂のダンスと同じほど古く、いわば脅迫観念を伴う執拗な語りなのだ」
「花は年単位でしか生きられない。人間のなかでせり上がる樹液は季節を過ぎ越す。季節を上流から下流へと運ぶのは過去だ。花には過去がない。季節さえない。その樹液は樹液だ。それは生きる<往古>を源泉とする」といったようなことは説明できなかったけれど(笑 酔ってたから!)、
それからイコノロジーについて、
写本挿画(ほんとうは壁画、聖堂のそれがいいのだけど日本で見られないから)の「ナラティヴ」について少し語った
たのしかった
ここからはちょくせつ彼女に関係ないはなし
自分自身に向けて
自作品を客観視して批評する目を養うには「書く」ことがいちばんだ
書いて、そして言いたくないことは削ればいい
まずもって画面になにがあるかをすべて言い尽くせるかどうか、構成を、色を、マチエールを、それらの「効果」まで、その他なんでも言えるものなら言えばいい
「見え」ていなければ言葉に出来ない
言葉で言いあらわせないものを描いている、そんなのあたりまえだ
あたりまえだからこそ、せめてもそこにあるものが言えなければ「表現」の手前にいるということだ
「他者」になんてとうてい伝わらない
のぞみ、それ自体に違和感や発見があり、発展もある
そこにある「矢印」はじぶんで消せる、隠蔽もできる、忘れることもできる
その逆も
無意識の領域とでもいうものに近づくこと
イメージの深層へと突き進むこと
みること、読むこと、書くこと
それらはほとんど同等のことだ
わたしは絵と言葉が好きだ
大好きだ
だから、ガムバル
とかいて、
明日、花うさぎの第二部最終回だよーって書くのはちょー宣伝臭がしてダメでしょうか???
てへぺろ☆
