~勝手に反応~
「作品」を、じぶん(読者さま)の立ち居地の表明に用いてもらってもわたしは全然かまわない
というか、もしもわたしがそれをされたらいやだとか困るとか思ったとしても、そういうふうに作ったんじゃないですって叫ぼうとも、それをとめられるかというとありとあらゆる意味で不可能だ
「作品」は勝手に誰かに奪われたり搾取されたり利用されたりなんだりかんだりされちゃうものだし、且つまたまったくそんなことを超越して「存在」するものでもあるし、そうした一見「搾取」やら「曲解」やらなんやらを糧にして実はしぶとく生き延びていくものでもあるし、さらにいうと作り手にとっても作品にとってももっとも悲惨なのは「誰からも何からも相手にされない」まま朽ち果てるってことだってあるのであるよ、というか、そのほうが大半なんであるよ、ははははは!(いやー、ちゅらいっすw)
まあそういうちょーぜつ当たり前のはなしはおいて、
ほんとうにどうしても許せない、たとえばそれを理由に何かを差別するようなものに使われてしまった場合、それをわたしが知ることが出来、かつわたしが生きているときならどうにか戦えるかもしれないし「作品」を奪われないようにしないといけないかもしれないし、多少なりともそういう行為が可能かもしれなくても(ていうかこれだってきっと色々と大変だろうけどさあ)、わたしが死んだら何があろうと無理だもん
作者と読者の非対称性っていうのはいつでもある
そして、これがまた不思議なんだけど、そこはすんなり飲み込めても、「読者と読者」のあいだには「非対称性」って現実的にはないのよね、ないように見えるし、お互いに知り合えずとも距離を隔てようとも、「作品とその受け手(鑑賞者でも読み手でもなんでもよいが)」という立場はどんなひとであろうと確保されちゃってるわけだ
各々の隔たりには、住む場所やら性別やら時代やらそのひとの「主観」やら「好み」、もっというと「読みの優劣(うひゃーっ!)」とかイロイロあるんだけどさ
いつも、そういうことを考えて不思議だなあって思うのよね
つまりさ、いちおうわたしは「作者」という特権的な立場にいたりもするんだけど、
だからわたしだけは、それを「書き換え可能」という意味においては特権的ではあるんだけど、
そのほかの意味においては、わたしも「読者」なのよね「受け手」というか
そして、その「読み」が、「理解」が、「読者」より優れているとは言えないのよね
恐ろしいことなんだけどさ!!
「作品」ってほんと面白いというか不可思議な存在だなあと
そうそう
正確な引用じゃなくて申し訳有りませんが、
あのピカソでさえ、いっている
わたしよりも藝術の方が強いと
現実世界で王侯貴族のようであったピカソよりも、作品(藝術)のほうが強い
あのピカソが振り回されてることを考えると、
わたし程度がおろおろウロタエまくってもしゃーないなって気がするよねん♪
florentine(磯崎愛)のことを語る
