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florentine(磯崎愛)のことを語る

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 別れたときに、晃がえんえんと口にしたのがこのことだった。このことというか、もっと上手く立ち回れってことも含めて、お互いの立ち位置の違いだったような気がする。価値観の違いっていう言葉だとちょっとずれる。それは突き詰めなさすぎだ。耳障りがよく、都合のいい言葉で内省を促さない。もうそれ以上、お互いに突っ込めない。美しくて傷つかない、実のない言葉に思えて、私と晃は使わないようにしていた。
 あのとき私は、はっきりと思いやりがないって言えばいいのに、と思っていた。そうでも思わなきゃ、聞いていられなかったというせいもある。
 上手くいえないけど、彼は私がいつも鳥瞰的俯瞰的に上からモノを見ようとする態度が傲慢だと思い、そんな完全で都合のいい、神のような視点はないだろうと責めていた。公平とか善悪とか、その立場にもなってみないで見分けられるはずはないだろうと、いつも言われた。正論だ。でも、それは一見正しそうで、みんなに配慮してるようで、私の傲慢同様に危うい。立場によって容易にひっくり返されることもある、逃げ道をあらかじめ用意するやり方に思えた。仕方がなかったとか、みんなそうだったとかに傾きやすい。
 晃がいうように、それじゃあ、私は強者だろうか。彼に好かれていると思って余裕ぶって驕っていたのだろうか。ほんとうに? 
 ひとが、強者であることなんて、人生のうちそう何回もないんじゃないのかしら。いえ、まったくといってないんだと思う。それに、強者も弱者もなく、強くても弱くても、相手を傷つけることはかんたんにできる。それだけじゃない。殺すことだってかんたんだ。ひとは高いところから落とせば死ぬし、重いものを振り上げれば非力な私だって頭くらい潰せると思う。ガラスに身体をぶつけてきた虎のように圧倒的な力がなくても、ひとひとりくらい殺す能力が私にもある。誰にでも、ある。
 目に見えるわかりやすい暴力じゃなくて、言葉ひとつで相手を追いつめることもできる。そして、自分の弱さや脆弱さばかり思いつめることがあるけれど、ほんとうはけっこう強かでずるくできている。
 それよりなにより、みんながそうしてるからっていうのはどうも、生理的に受け付けない。みんなって誰だ、言ってみろ! と脅しつけたくなってしまう。
 とはいえ、マジョリティとマイノリティというのがこの世に存在しないとはさすがに思っていない。どっからそうなのかと線引きする能力が自分に備わっていないだけだともいう。時勢を読む眼力がないのだ。コンピューターのように「数える」ために生まれてきたものじゃないんだもの、それでいい。大勢がいつも正しいというわけじゃないし少数も同じだ。
 どこに中心があって、なにが大事で、それがいつも、わからない。
 誰に感情移入したらいいのか、誰がいうことが正しいのか、いつも、わからない。
 かといって自分がこの世の中心にいるとも思えない。でも、それをいちばんの頼りにするしかない。こんなチャチなものからしか、この世を眺められないのは不幸じゃないかしら。
 たとえば「絵」のことならばたぶん、私はどこからそれを見ればいいのか、どの順番で展開されていくのか、画家がどこから見て欲しかったのかわかる気がする。ある程度、読みとれているという自信がある。自分でその絵をなぞることができるから。かいた順番やくりかえされるモチーフを見分けられるから。誰の何から影響をうけたのか想像できるから。
 でも、この世界を、この自分をとりまく状況を、私はどこからどう見たらいいのかわからない。

 『夢詩壷』より
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