ちょぴっと長めの文章かいたのだがどうよんでもわたしの「愚痴」なので保留
愚痴が悪いわけじゃないんだけどね
黒髪君のおうちにはモノがなさすぎて、
茶髪くんのおうちは山のように物がある
すぴりちゅある系(よくわからないで使ってます)と「片付け教」は似てるのかな? 重なる?
清貧な聖フランチェスコ(こないだ映画みたしなあ)みたいなものかと思ってたけど、
「他者性」ってのが見当たらないような気がするのは片付け本だからなのか、なあ
そうそう、それで、
うささんおすすめの本が図書館になくて、いま同じ著者の『災害ユートピア』をちょぼちょぼ読んでるところなんですが、
じぶんの書いてる小説『歓びの野は死の色す』で、コンフレリーまたは友愛団体(と書くとフリーメーソンしか思い浮かばんってひともありましょうが、超国家集団、「権力」との関係においてのそれ)の勉強をしないとピシっとしないのはわかってて、けどロジェ・カイヨワでさえ(ってよく知らないけどあたまいいひとだよね?)これは手つかずでって書いてるのをアセファルで知って、をいをいわたしゃどうすりゃいいんじゃいって思ったりしたのだけど、まあやるしかないのでやるのだが(ちゅらいっす!)、あとはきっと「法」(これはちょうどわが命つきるともで出てたな)なんだろうが、法のほうには行きたくない気持ちがあって(勉強したくないというよりそれは別のはなしでやりたいので保留)、あとはまあやっぱりフーコーを読み返さねばに戻る(というより、フーコーのさらに先をいってるキニャールの翻訳早く出して!!)のかもだけど、
その「災害ユートピア」で中空に浮くもの、
カーニバル性の言及もあったけど、
そこでいったん投げ出されたものを日常に絡め取って繋ぐのが宗教なのだろうが、
修道僧などというのはそういう意味でも画期的な、革新的な存在であるなと(どっかでキニャールもかいてる)
べつにそんなのあらためて書き出すほどのものでもないし取り立ててあげつらうほどのものでもないが、
けど、でも、これを読んでるとここで為されているのは「行」と呼ぶようなものだよな、としみじみ思ったので書いておく
きほん、喜捨と奉仕、だからね
聖俗のあわいにひとは棲む、と言ってしまえばかんたんで
そうはいかない、んだな、きっと
で、
「共同体」問題というのはときがたくてしょうがないのだが、日本に広場がないっていうアレはやはり今現在も通用してるのだろうか、あれは俗説なのか、そのへんがよくわからない
「他者」、他者がいるのかいないのかよりさきに、この国に「私」がいるのかいないのかが、きっと、わたしにはわからない
わからない、のだなあ
florentine(磯崎愛)のことを語る
