「私の読書録に「文学」というジャンル名はない。「私はこう思う」と言うために書かれたものは、すなわち「私は他の人々とはかくかくしかじかの点においてこう異なる」ということを述べるものでもあって、そこに何らかの他者批判性が含まれるのはもともと避けられない。ゆえに、いかにそれを読んでもらえるかは筆者の表現技術の磨かれ方にかかってくるわけで、その文章に研鑽や創意工夫のあるものには必ず文芸的味覚性が備わっている。つまりは随筆も評論も広義の「文学」なのである。」
「大長編を書けるのも確かに才能だろうとは思うけど、自分の書いたものの中に、余分なものや無駄な箇所を見出さなかったということ、つまり、書いたものをあえて捨てる、あえて減らす、あえて縮める、というような操作を微々とも行ってみなかったことがわかると私は読者側の気分として何だかがっかりしてしまう。松本清張の評論や吉村昭の記録小説の、いかにも十分カンナのかかったあの文章の凝縮された味というやつに先に魅せられてしまっているだけに、ただただむやみに長そうなものにはなかなか入り込めないみたい」
「私はえてして世間の時流に影響されやすく、その勢いに追従しやすく、そのくせ気取りやすく、他人の口臭は鼻についても己に口臭があることを忘れやすい人間である。こうまでダメなやつであればこそ、実はおおむね「自分が書きたいもの」と「他人が読みたいもの」とは違うことが薄々わかる。そこに超えがたい隔たりがあると思うがゆえに語句は選ばねばならぬことに思いが至り、作文には技術が要ることを人はだんだんに知るのであって、どんな通念語や省略語の羅列でも、はたまたそのもの言いがどれほど子供じみていようと、あるいは自慢臭さ芬芬たるものであろうと、とにかく文章でさえあれば誰にでも伝達が可能で真意も通じ合えると踏めるようならそりゃあ「言葉が多様であっていい」のは道理だろう。しかし私なら自分と他者との間の距離や相違に関してそれぐらい傲慢なタカのくくり方もないような気がするのである」
「自分の肉体が年々加齢していくのと同じ速度で一年ごとにちゃんとトシを取っていくような文章を書きたいです。いくつになっても発話の中身がつるんつるんで三百六十五日盆正月並みに「人生、愛だろ恋だろ涙だろ」式なおめでた顔をしたのうのうたるご自分史開陳日記にはもとより用がない。自分を抑制してみない人は他人の側の抑制のほどを解さないだろうように、自分の全部をあけっぱなし出しっぱなしにしないと他人に何も伝わらないと思う人って、自分が読む立場になった場合でも他人が控えめに示す小さな断片文にはおよそ洞察力もクソも働きゃしないんじゃないかなんて時には思ったりする」
「結局、人は自分が書ける水準でしか読めない」
hebakudan「血止め式」
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ものを書くひとにとって、これ以上の警句はそうそう見つからないだろうっていうことを平然と、ほんとになんでもない顔つきで(しかしその背後に恐るべき読書量&幅&深みがあることを覗わせこちらを戦慄させながら)書かれていたhebakudanさん。
いつだったか、ぶりさんがエーコ先生の「開かれた作品」を実践されていたのかもってことをハイクでつぶやいてらしたけど、そういう可能性は十分にありえたのではないかと思わずにはいられない。
hebakudanさんに読んでもらって恥ずかしくないだけの作品が書きたい。
そう思って書いている。
勝手に引用のことを語る
