そういえば、
わたしにとって「教養」という語は、
「敢えて言う! ギリシャ語とラテン語(欧米人版)、または古文漢籍外国語(日本人版)の素養がなければ『教養がある』とは言えないと!!」
くらいのものが最終回答で、ここにはっきりと西欧主義的なものがあらわれてきたりする色々な偏りはまずおいて、
あとはもう、日常会話で使うなら「教養がある」イコール「芸術や文化的な事柄に関心がおありですね」という意味でしかないと思っている。
わたしはそれなりにマッチョなのでこういう結論になってしまうし、それでいいんだと自分では思ってる。
それに、上記のような言い分を掲げておけば、ほら、この日本で何人のひとが当て嵌まるか言ってみようか?っていうとたいていのひとはそうそう面識のないまま終わるレベルの希少さだし、外国人でさえ、わたしの狭い世界では舞台の上に見たパスカル・キニャールくらいしかぱっとは思いつかないくらいのもので(ピンチョンとか出来そうだしラファティもギリシャ語ラテン語それなりにやったらしいけど)、その語を用いることのストレスは軽減する。
もう少しつきつめていうと、たとえば三島はいちおう漢詩は詠めていたようで(一作だけ見た覚えがある)、古文はあのとおり擬古文調を十代ですらすらものすレベルだし、英語も達者なことは間違いないようなので(じぶんに英語能力がないからようわからんですよ)「教養がある」といってもいいだろうとかいうはなしであって、まああとは大江さんとか(漢詩を詠んでるかどうかは存じ上げないが漢字への拘りのある方なので漢詩を読むのはされているのではと思うしギリシャ語ラテン語は堪能ではないと何かに書いておいでだったような気がするいっぽうで渡辺門下ゆえにそれなりにはお出来になるはずだ)、要するに、「教養がある」っていうのはノーベル文学賞級のひとのみってことでいいんじゃないかな、と思ったりする。
極端でマッチョすぎるといわれたらうなずくし、マッチョで悪いか、わたしはじぶんの教養のなさを恥じることはあっても怖じないぞ、くらいのことは言いかえす(笑)。
とはいえ言葉というのの定義は色々なので、これはあくまでもわたしの意味づけ定義づけ格付け(?)であるからして、じぶんいがいのひとがその語をどういう意味や内容をさしているのかというのはいつでもわたしには興味深いものであるんですけどね。
florentine(磯崎愛)のことを語る
