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florentine(磯崎愛)のことを語る

返信のような、普段からいってることのような、いちおうわたしなりにがんばって(笑)てけとーにかました結果、何故かこうなる
 
わたしは、ひとが長年ひそかに抱え込んだものは「真珠」のように貴く美しいものであることが多いとおもっている。きっかけはささいなこと、ほんとうになにげない始まりだったかもしれないけれど、それがそのひとの内側にたしかなものとして存在し、ときにあらたな気づきに触れて嵩をまし、またはさらに凝り、鬱屈し、思考の伸びやかさを失ったように見えながら深くしずかにそれが沈んでいくとき、そのひとの違和感、または「異物」としてありつつも別の意味でそのひとらしさともいうべき何かを照射することがあるのではないかと感じる。それらが真珠の表面を覆う虹色の光沢に似て、とらえどころなく、ひとを魅了する。
べつの言葉で云えば、そうしたものはジュネのいうところの「傷」であろうかとおもう。
そしてまた、「真珠」というのは「真の珠」で一般的には真円のものをさすが、それは本来「歪み真珠」バロックこそが自然なのだ。 
わたしは、じぶんの好きなひとの「傷」をみるのが好きだし、そのひとに「傷」をつけたい。もっといえば、そのひとの「傷」として、じぶんの一部のみでもそのひとのなかで生き永らえるよう欲している。全部ではない。じぶんでもたにんでもひとの「全部」というのがわたしにはわからないから。けれど忘れられたくないという単純さではなく、明確にわたしは生き延びたい、と思って書いている。わたしと作品は別物で、そんなことはわかっている。そのベツモノがいつか、わたしの死とともに「わたしの何か」、に変わるとどこかでわたしは思っている。だからなのか、たんに「作品」の生命が長いこと(これはおそらく評価が高いこととかなり近しいかもしれない)を願うだけでなく、もっとずっと切羽詰まった感覚でかいている。
とはいえふつう、ちょくせつかんせつに関わらず、ひとはひとの「傷」に触れることを躊躇うものだ。魔法使いのように手を触れてその傷が癒えるわけでもなし、ましてたいていのひとは他者に自身の「傷」について語られることを好かない。言葉が現実を追い越すことはないし、そうした行為はそもそも非常に乱暴で傲慢なものと思われているからだ。しかも言葉はいつでもあとからで、だいたい常に間に合わない。この世の神話や民話の類で言葉が必要不可欠なところにきっちりと行き届いたためしはほとんどない。 
さりながら、それでもひとは言葉を欲するときがある。恐ろしいことに、凄まじいことに、言葉だけでも欲しいと願うことすら、ある。
 
小説には宛名がない。でなければ、誰か独りのために書かれたものがあるだけだ(これに名作傑作が多いのはご承知の通り)。
その中間、というのは実はない。
モデル読者を想定しようとも、たいていの小説には受け取り手がいないのだ。
 
といいながら、
いま、わたしは珍しく、明確に受け取り手がいる、とおもいながら小説をかいている。
なにかに迷ったら、つまずいたら、わたしは「あなた」のことを想うのですよ。
それはなかなか愉しい体験なのです。
(愉しいだけじゃないけどねんw)
 
あ、
ちなみにわたしに足で踏ませるとなると、それは確実に「えくすたしー」コースなのでw
ちょーマジで! 
覚悟して、おいでなさいまし☆
(いやほんとマジでマジでマジで、わたしに足で踏まれたらちょー痛くてちょー気持ちいいYO! いわゆる伝説持ちの整体師じゃなくて筋骨調整法師からお墨ついてまっせ☆ 体力ないから仕事にはできないって言われてるけどマジで自信ありまする)