十代のころかいていた小説をひらいて読むと、凄まじい嫉妬をおぼえることもある
チョーへたくそですが、「このひとは見えてるものをただじぶんの全力をつかって、つかっていることにすら気づかず、ひたすらに無心に、それはもうこれ以上ないくらい愉しんで描いている」ていう感じがある
その全力のレベルが低すぎるからアレですがw
まあそれはおいて、
そういう「若さ=馬鹿さ」ていうのはつまり無知で経験も少ないものの「特権」であって、三十代をとうにこした小説家がそう書くには、そうなれるだけの鍛錬がもっともっと必要なのです
わたしは、今もああ書きたいとは思わない
それこそ地獄におりて苦しみぬいて書くからこその「愉悦」よ、ふふふ、わたくしもうオトナですことよ?
ただ、そうした「安定性」とでもいうべき「無邪気さ」は、たぶんわたしが読者様というものに恵まれていたからだろう
じっさい、わたしは書き始めた当初からものすごく恵まれていて、書けば必ず読んでもらえた、友人たちに
そしてその友人たちが、その友達へも小説を宣伝してまわしてくれた
今も、毎週更新してそれをちゃんと読みに来てくださるひとたちがいる
そういう点で、わたしは実は「読まれること」に飢えたことがない
そこは弱点なのかもしれない
表現者として
強みでもあるかもしれないけれど
どっちだろ?
だいたい常に疑り深いくせに、読者さまがいることは疑わない、自作が読まれないとは思ってないって、わたし、どんだけ自信家なんだろ?
というか、それはわたしのまわりがわたしという書き手をそう育てちゃったからよ、そのひとたちのせいにするよ!(←ヒドイ、感謝するところでなんでか怒ってるし、わたしw)
でも、だって、
……あー、
そっか、
うん、
それは、やっぱり、わたしはそういうとこ、ほんとに無邪気というか、素朴というか、「小説の神様には愛されてる!」て感じてるんだよねえ
というか、ひとはひとを愛さなくなったりするけど、小説は読者をなにがなんでも、いついかなるときでも、愛するよね、それは、絶対なのよ
でも、その「信仰」をわたしが持ちうることができたのは、実は「生身」の「読者」様の「存在」なんだろうな
形のない「神」のようなもの、たとえば「愛」だなどと不確かなことをいってみても、実のところ、わたしは、わたしの小説をよんで感想をくれたりダメ出しをしたり(!)挿絵やマンガを描いてくれたりましてや朗読までしてくださる(ここで、ういんく☆)方々という、ちゃんと「生きてる」ひとたちの現実の存在を感じとってるから、信じつづけていられるのだろうな
(ものすごく引きこもりしてた時代にも、わたしの小説をよんでくれるひとがいたから、というか、ひきこもってたあいだにもんのすごい量の小説かいてて、いやその前からもかいてましたが、でもすんごい量はきだしたんですよ、すんごい量、あははははw もうどんだけダメなひとってかんじですが、いやー、笑えないw ただ、書くことは生き延びるにはイイ手段だと思う、少なくとも書いてるあいだはひとは死なないのでね)
書かずにはいられないから書くのだけど
それだけじゃないよね
ということで、
いつも本当にどうもありがとうございます
これからもどうぞよろしくお願いします
もっともっと面白い小説かけるようになりますからねー!!!(大宣言☆)
florentine(磯崎愛)のことを語る
