えーと、
どうしよっかな
ここのほうが連なっててわかるので、こちらで
わたしが、いついかなるときでも問題にしているのは、「言葉」についてです
「SM」という語がバズワード(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89)化しているのではないか、というご指摘もありましたが、わたしもそれに異論はありません
ただし、わたしは自身でなにか説明しようとする場合、そうしたバズワードめいた言語はなるべく避けますし、ある言葉について記すとなったら、なるたけいつも辞書にあるような、つまり一般性のあるとみなされうる使い方を心がけています
SMのSは、サディズムの略称で、Mはマゾヒズムのそれです
双方とも、人名からとられています
ひとりはマルキ・ド・サド(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%89)、もうひとりはザッヘル・マゾッホ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%83%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BE%E3%83%83%E3%83%9B )です
とりあえず、SMという語は、このふたりがいなければこの世になかった言葉なわけです
それからクラフト=エヴィング(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%82%A8%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B0)の名前を出さないといけないですが、わたし、このひとの本は未読ですのでごめんなさい
サド侯爵はフランスのひと、マゾッホはオーストリアのひとなので西欧というより東欧のひと、といったほうがいいかもしれませんが、マゾッホの代表作『毛皮を着たヴィーナス』を読まれた方はご承知のように、あそこで語られるのはフィレンツェ、事の始まりに出てくるのは「メディチのヴィーナス」像です そういう意味においては、まさに正統派ど真ん中の西欧とよんで差し支えないかと思います
それから、
SMという言葉が生まれる前にも、またその語を知らないひとたちにも「嗜虐」や「被虐」という趣味嗜好や性癖、衝動その他、といったものは当然あるかとおもいます(同様に「理性」もそうでしょう、それが西欧人の特権だ、などといえば「逆オリエンタリズム」とてもいうべき偏見になることは必定です けれどSMという語のよってきたる文脈において、この「理性」は西欧人たるひとびとの持ち物である、というのはさほど危うい見解ではないとわたしは考えます)
なんとなく馴染みのある、聴き覚えがあるからひとはそれをして「SM」とひとは名指すのだと思うのですが、わたしはそれに違和感を持つことがあります(すべてではないです、語り方の問題ですから)
たとえば、古代ローマを舞台にした小説のなかで、拷問大好きな皇帝をローマ人たちが「あの皇帝はサディストだ!」という台詞が出てきたら、それをわたしは奇妙だしオカシイと感じる、ということです(地の文で書き手が記すならアリでしょう)
言葉にはひとつひとつ、意味があります 指し示す内容が違います
それを、わたしはなるべく丁寧に使い分けたいのです
それから、
何かを名指すこと、命名すること、また自らそれを名乗ること、それらは「権力」の問題でもあります
>私は個人的に内心の(いいかえれば動機があって)実行に移さなくても、それはそれで内心さえあれば、SMっぽいところがあるのではないかと考えていたのです。目に見えるような態様であるとかプレイというのはSMというのを名乗るうえで必要ないんじゃないかなあ、と。
そのうえで、そうであるからこそ、
こういう考え方があることは、わかります
言葉の定義の仕方は、実のところ、ひとそれぞれ、というのが現実であると思います
わたしは辞書的な意味にそって言葉を使いたいと書きましたが、それは誰かに「説明」するときのことであって、小説であったり普段の会話であったりした場合は、じぶん流やキャラ流に使うことのほうが多いと思います
もっというと、言語というのをどう使うか、どういう風に覚えているか、そういうこともひとそれぞれの、そのひとをそのひと足らしめる特別な、素晴らしい持ち味だとおもっています
そして、そのまるで違う持ち味ももつ言語同士をどうにかして摺り合わせようと互いに努力するとき、とりあえず「辞書」に立ち返ること、その語そのものの歴史に触れること、それはわりと「有効」である、というふうにわたしは考えています
余談ですが
わたしの尊敬する宮下志朗氏は、ラブレーの訳業についての講演会で、二時間ほどのおはなしのうち、「人文主義」や「ユマニスム」といった語の定義、歴史的経緯その他の説明だけで大半の時間を費やし(!)、おそらくわたし他その場にいた全員が「先生、いったい何時になったらラブレーの訳業がこんなでしたーておはなしにうつるのかしら?」て思っていたのではないかと(笑)
けど、わたしは、そういうおはなしのされ方をする氏が、そうした言葉をとても大切にする態度がとても、とても好きだし、尊敬しています
わたしも、あれくらい言葉を大事にしていきたいです
florentine(磯崎愛)のことを語る
