http://h.hatena.ne.jp/florentine/243593119656310743
さっきの勝手に引用
けっきょくここで語られているところよりずっと先に、わたしのいう「大文字の文学」の仕事、というのがあるって思ってて、たとえば「物語」というのは基本、「構造」が届けばいいので世界中に敷衍し得るというか流行るというか、つまり「言語」を問う必要性って実はそんなにないわけなんだけど、だからとりあえず文字の読み書き(話す聴く)ができれば誰でもそこにアプローチできる
文学とわたしが呼ぶものにとって大事なものは、ひとつにはやはり「文体」で、それはそのひと固有のものであり、「他者」とどこまで通じ合えるかというとどう考えても難しくなる範囲のもので、まあだから簡単ではない、てことになってしまうのだ
けど、
そのややこしさというか、むずかしさ、わりきれなさ、それはやっぱり文学がやっていく大事な仕事のひとつであって、
人間ってものがせいぜい百年くらいしか長生きしないなかで、どうにかこうにかその生を支えていくには逆に、
誰もがアプローチできるもの、という「社会性」をもった「物語」よりも(物語論をちょっとやればわかるように、物語というのは共同体へ馴化を強いたりその強化を称揚する、「教化」としての素材である、というのが出てくる)、
「文学」のほうが、ひとを生きやすくするものではないかとわたしは考えている
とはいえそんなにかんたんに物語と小説、または文学を割り切って定義できるのかというとそんなわけではないのだけど(というか、作品ごとにやれっていう話しでしょうし、同じ作家でも、たとえばわたしの小説でもそれらは重なり合っているわけで)
そのへんが、だからこそ「批評」の仕事であって、
情動をのみ述べさせる感想文を書かせるのではなく(それが悪いというのではなくて、変な圧力かけてイイ子なこと書かせるアレがいやなのだ)、
文法ガシガシやって、物語や小説の腑分けをしてみせるのも「国語の授業」の大事な役割じゃないのかなあってずっと考えてるし自分がバイトしてるときとかはしたんだけど、うーん
最終的には、
書く、
しかないんだよな、ていうオチです、はい
うん
けっきょく自分の持ち場をしっかり守ることが一番ていう当たり前のオチ
