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くたびれ はてこのことを語る

半病人生活だったとき、横浜のある場所に知人が行きたいと言うので案内したことがある。
身体は辛かったけれど「うれしい、一度行ってみたかった」としきりに言うので
そんなに行きたかったのならよかったと思っていた。

その人は少し前に仕事を辞め、パートの仕事に就いたばかりだったので、仕事の様子を聞いた。
いろいろと大変らしく、長々と羽振りがよかったころの話やいまの苦労話を聞いた。
「まあ大変だけど、神さまが導いてくれると思っているの。前より時間も出来たし」
と苦笑しながら言った。そしてとても自然に
「こんな風にあなたを援助する機会もできたしね」
と言った。愕然とした。彼女はわたしから知らない場所に案内してもらうことを慈善行為だと思っていた。
「引きこもっている病んだ人に外に出るきっかけを作ってあげて、話し相手になってあげた」つもりでいたのだった。
彼女は近所に住む高齢の女性と一緒にいたのだけれど、続けてその女性の相手がどんなに大変かを話した。
その人と話し、行動を共にすることも、彼女にとっては「援助」の一環らしかった。

ごく普通の人間関係で、片方はかわいそうな人に助けを差し伸べてあげているつもりということがある。
話しかけてあげた。一緒にいてあげた。遊びに誘ってあげた。目を合わせてあげた。返事してあげた。
見下している相手にやさしくするのが大好きな人もいる。
「○○だから誰にも相手にされないだろうけれど、自分は違うよ」
とニコニコ近づいてくる人は、自分は相手を見下しているとも○○を差別していると思っていない。
でも言われた方は本当に不愉快だ。

「ちゃんと○○してあげている」という言葉にカチンと
差別の解消というのは、脳内基準の上下関係を固く保持したまま、一段下の誰かに恩寵を施すことじゃない。
敬意を払い、対等に、互いにサポートを受け合うということだと思う。
人がどんな不利な状況にいるときも、人の誇りを尊重することだと思う。