先日の句会のことをつらつらと思い出していて気がついたこと
ある「雨の降る句」が投句されていて、とてもいい句で参加者の皆さんも私もその句を取っていました
ところが、互選の披講が終わった後に、先生から作者の方に「この場面では雨は降っていないでしょう?」という問いかけがありました
作者の方、答えて「降っていません」
作者の方が季語の意味を取り違えていて、「降っている」季語で句を詠まれていたのですが、先生には「雨は降っていない」様子が見えていたんです
先生が指摘したのは、季語の使い間違いではなくて、「あなたが見たものは違うのでしょう?」ということでした(最終的に季語は直しましたが)
すごく、びっくりした!
私も披講の最後に「雨が降っていて」というところで、ちょっと口ごもったのです
何かしらの違和感があったのだと思いますが、文章そのものに自分の鑑賞したものを合わせてしまっていました
それを、今日思い出しながら、そうかぁーと思ったのは、文学っていうものを教えることの難しさです
漱石さんが書いていらしたけれど、私なんかは「日本語が読めるので、日本語で書いてある文章を読んでいる」わけです
で、内容は印象で解決しているわけです
今回の句も、まず印象で読んでいる(で、いいなぁと漠然と感じている)、それを説明しようとすると文字で読んだものに合わせてしまう、だから印象と感想が違っていることに気がつかない
先生が季語とか文法とか言葉そのものに厳密な理由が、言葉が通じているというところで暮らしている私にはわからなかったんですねぇ、ずっとねぇ…
そんなことがあって、今日になって、ようやく、自分は先生に教えていただいているんだなぁ…って気がつきました
