「子規と漱石」
写生と叙事文、子規さんの日記まで
ここまできて、最初の方で取り上げていた「地の文の四つの文体の書き分け」が、子規さんの新たな血肉になっているみたいに感じた
あと、虚子さんの句の解説の時の視点の多さ、煩雑さが一気に解消されているようにも思った
それでも文章っていう平たいものの中で細密に時間を操るには、古語の助動詞が必要なんだなぁと、緻密な構成を見て思ったり
今の小説の文章っていうのは、そこに時間が内包されているっていうのが普通になっているから、書き手が文法で明確にするのではなくて、読み手が「察する」ものになっているのかなぁ?
そうだとすると、子規さんたちの目指した客観的、写生、写実的表現っていうのは、現代の文章表現では形だけ同じで中身は損なわれているのかしら
いや、そもそも私が古典やその流れにあるものを読んでいないだけなのかな
雪杯×すのう!のことを語る
