…先生は、ちょっと待ってくださいと手振りで言い、いったん自室に戻ると、粗悪な画仙紙で刷った小冊子を持ち出してきた。『中佛簡易単語対照辞典』。先生が開いてくれた頁をのぞくと、そこには時間に関する副詞がいくつか列挙してあり、驚いたことに、《以前》に対応する単語としてはたったひとつ、《AUPARAVANT》だけが記載されていたのである。紆余曲折を経てフランスに落ち着いた中国人共同体に流通しているらしいこの小冊子が、クイズ番組で堂々と笑い話にされる紋切り型の源だったのだろうか。ぺなぺなしたそのみすぼらしい本の、黄ばんだ頁を何度も確かめながら、なにをどう言っていいのやらわからなくなり、今度は若干速度を落としたフランス語で、大変失礼ですが、私はあなたがこの単語を口にされるときの、その《音》がとても好きです、理由はわからないけれど、ほっとします、と伝えた。気持ちが通じたのか、先生は顔ぜんたいが崩れるほどの笑顔を浮かべて私の肩をぽんぽんとたたき、メルシ、と言い残して部屋に戻っていった。
おぱらばん. 堀江敏幸. 新潮文庫. p.12-14.
