彼はまず、こちらの国籍を確かめもせずに、以前、東京へ行ったことがある、とフランス語で言おうとした。言おうとした、としか書けないのは、《以前》に相当するフランス語を思い出すのに、彼がたっぷり10分以上の時間をついやしたからである。顔を真っ赤にして、声にならぬ声を漏らしながら熟考した末に出てきたのは、くだけた日常会話ではあまり使われない《AUPARAVANT》という単語であった。片仮名に変換すれば《オパラヴァン》と表記しうるこの副詞は、ふたつの行為の時間差をはっきり示すために用いられる、どちらかといえば丁寧な言葉で、私は宿舎に滞在している中国人の多くが《AVANT》のかわりにきまってこの単語を用いるのに気づいていたのだけれど、その理由を深くつきつめようとはしなかった。先生の発音は、不揃いな歯ならびと前歯にできた穴からは想像しがたい、まことに明瞭な単音で、ポップコーンでもはじけるようにひとつひとつばらけたその音の羅列は、いささか日本風に《おぱらばん》と、じつにキュートに、遠い国の魔法使いの、とっておきの呪文みたいに聞こえるのだった。私はその響きにうっとりしつつ、ひとつの文章ができあがるまでの膨大な時間を案じて会話を断ち切り、紙と鉛筆を用いた漢字による意思疎通を提言したほどなのである。
勝手に引用のことを語る
