id:dominique1228
勝手に引用のことを語る

 それを見て幸太の脳裏によみがえってきた光景があった。あるとき、お濠の隅に見慣れないものが浮いているので近寄って行くと、ネズミだった。30匹、いや50匹近くいたかもしれない。排水口にいたのが前日の雨で一気に押し出されたらしく、お濠の一角を埋めつくすほどの量が腹を上にむけて揺れていたのである。そんなにたくさんのネズミの死骸は見たことがなかった彼は、知人の災害現場を目の当たりにしたようなショックを受けて、しばらく身動きが取れなかった。
 そのとき、災害で死ぬのは人間だけではないと思った。ネズミも洪水に見舞われたら大量死する。ちがいは彼らの死は顧みられないことだ。人間は同胞の死を悲しみ、再発を防ごうとして努力するが、災害を遠ざけようとすればするほど自然からより大きな負債をしょい込むような気がする。ネズミのように黙って受け入れるべき死もあるのかもしれない、そうためらいがちに思ったのだった。
 目の前に浮いている灰色のネズミは、一匹であるゆえにモモやチャックを思いおこさせた。地面に足をつけることなく過ごすネズミと、日々、街を駆けずりまわっているネズミ。一方は暖かいふとんにくるまって眠り、もう一方はいつ流されるかわからない下水で夜を過ごす。そのリアルさが強く胸に迫った。

ソキョートーキョー(鼠京東京). 大竹昭子. ポプラ社. 2010. p. 99-100.