id:dominique1228
勝手に引用のことを語る

「尾木さんは大学に行きましたか」
「行ったけど、君みたいに現実的に役に立つ学科じゃなかったな」
「なに科だったんですか」
「……哲学科さ」
 幸太はこのことを話すとき、頭でっかちだった自分を告白しているような複雑な気持ちになる。専攻はインド哲学だったが、小さい時から実感している宗教観とかけ離れていて馴染めず、目的をはっきり定めたエリート学生が多い中で、群れからはぐれているような心細さを味わった。その気持ちは今もつづいていて、人並みに生きていけるのかという不安に押しつぶされそうになることがある。
 広告制作会社には三年ほどいたが、勤めてすぐにコピー書きは合わないのがわかった。倒産したときは心中密かに安堵したほどコピー用語に馴染めなかったが、かといって小説ならスラスラと書けるわけでもなかった。要領がつかめないまま時間だけが過ぎていく。何事に付けスローな自分は今の社会に無用な人間なのかもしれない。そう思うと、錆びた配水管から水が流れるように体の中に不安が溜まっていく。玲美とこの家があるからなんとかやっていけているものの、ふたつを失ったらたちまち路頭に迷いそうで怖くなる。スナネズミに惹かれているのも、そんな状況と無関係ではなく、彼らの小さくて柔らかな体を両手で包んでいると細っている心が少しは太くなるのを感じるのだった。

ソキョートーキョー(鼠京東京). 大竹昭子. ポプラ社. 2010. p.106-107.