ふれあいが現代社会で特に求められているとはいっても、ふれあいには健全なふれあいと不健全なふれあいがあることを知らねばならない。
不健全なふれあいとは、いわゆるベタつきのことである。相手かまわず自分の生い立ちを語り、現在の苦境を嘆き、人が時間をさいて対応してくれると、いかにも心のふれあいをもったかのように満足する人がいる。なんのことはない。これは“愛情乞食”にすぎぬ。
(...)
ふれあいの原型は母子一体感であるから、こういう人物は母子一体感を求めていることになる。しかし、成長するということは、母子一体感からの脱皮である。脱皮して、ひとりの独立した人間が他の独立したひとりの人間と時間を共有し、感情を共有しあうのがふれあいである。そこには“愛情乞食”の心理はない。ふれあいがないからといって、落ち込むとか腹が立つとかいう失愛恐怖がない。
他とのふれあいがなければ自分は生きていけない、堪えられないという人間は、ふれあい中毒者である。これは健全なふれあいではない。強迫性(がむしゃら)は健全ではない。「君子の交わりは淡きこと水の如し」とはよくいったものである。パーソナリティが健全な人(君子)はけっしてしつこくはない(水の如し)という意味である。
(国分康孝『〈つきあい〉の心理学』p.64-66)
勝手に引用のことを語る
