ポニーテールとハイヒール
ラッシュアワーの前の、けれど空いてもいない地下鉄の車内で制服の似合うポニーテールはイライラしていた。同じくらいキュートな--ニキビあとがジャガイモみたいなところを除けば--カレシと喧嘩したわけではない。でも少年が、ときどきのこっちを向いてニコっとするものだから、ポニーテールは必死でイライラを隠しておかなければならなかった。うれしいはずなのに、やさしいカレシは自慢のはずなのに、それよりイライラをこらえる疲労感がたまっていく。
「いったい誰なの!? もうやめてよ!!」
アタマの中で悲鳴をあげても、誰にも届かない。反対に、さっき、3駅ほど前だったか乗換駅で流れ込んできた、不愉快な大音量の電子音は車内に響いていた。ポニーテールだけにしか聞こえていないはずはない。なのに、車内の人々は誰もがまるで聞こえていないみたい。
「わたしだけなの?」
そうかもしれない。カレシを含めて、イヤフォンをしながら端末をいじっているのはこちらのシートに4人、前のシートに2人。立っている人もここから見えるだけで3人。容疑者と共犯者がこれだけいたら仮にポニーテールのように気づいたところで聞き流すしかない。ゲーム音楽のなりそこないか楽器屋のDTMでイタズラしたのか、ビートもハンパ、メロディラインなんてありゃしないペカペカした騒音。
どうも犯人探しをするよりも、乗り換えるまでのあと数駅を我慢したほうが得策だ、と車内の集合無意識は判断らしい。
「ほら、また1駅、忍耐のノルマは減った。よし、容疑者も1人減った。また扉が開いて、閉じて災いの音が消えてくれたらラッキー……」
しかし期待を裏切り、ペカペカした騒音は車内のアナウンスより大きく響いていた。
ポニーテールはうんざりした。こんな不愉快な音の中で、カレシと反対側の隣に座った自分の父親ほどのオジサンは、どうして居眠りできるんだろう? 大学生の姉と同じくらいの年の向かいのリクルートスーツは、どうしてアイラインなんて引けちゃうの? 信じられない。大人には鼓膜がついてないの?
またノルマは1駅減った。だがポニーテールは我慢の限界だった。
「もう、この音、誰か止めてよ!」
だらりと下に向けたポニーテールをわずかに左右にゆさぶりながら、決してジャガイモ少年には届かぬ声で絶叫する。
ゴムでミュートされた重い扉の閉まる音で、硬質の規則正しいタップのリズムが始まった。近づいてきたタップ音はゆれる床をこすり叩きながら、ポニーテールの前を通り過ぎる。ペカペカした騒音とはまったく無関係に刻まれる鋭い音は踵を変えて、再びポニーテールに近づいてきた。
ポニーテールが逆さまになってうなだれているのをジャガイモ少年がやっと気づいて、「大丈夫?」と心配そうに手を差し延べる。
そのとき、音源を暴き出した黒いパンプスが、奏でていたリズムを急停止。ペカペカの騒音の前で立ち止まった。次の瞬間、車内に鋭いスタッカートが鳴り響く。すらりと伸びたバックシームを翻らせて、ペカペカした騒音が蹴散らされ、アナウンスも集合意識も切り刻まれていく。
列車はまた次のホームに滑り込み、重い扉がシューっという油圧音とともに開かれた。車内の空間を、座席を占拠していた音漏れは「ちぃっ」と短い舌打ちを残し、ジャガイモ少年に支えられて立ち上がったポニーテールの横をそそくさとすり抜けると、一目散に再び開いた扉から飛び出していった。
ジャガイモ少年にもたれたかかったポニーテールが見送るホームからすべり出した地下鉄の車内では、すっきり目覚めたオジサンが資料を開き、リクルートスーツは手帳をチェックしている。黒いパンプスは音漏れを退かせたそのシートにいた。わずかにローズのルージュに笑みをたたえ、こちらに送ってくれたように見えた。
顔をシャンと上げてきちんと立ち直すと、ポニーテールがぴょこんと跳ねた。
「ありがとう。もう大丈夫。じゃあ、また明日ね!」
階段を踊るように駆け上がるポニーテールは考えていた。
「無断で借りてたお姉ちゃんのルージュ、今朝『ない!ない!』って探しまくってた、あれ、謝って返さなくちゃ。うーん、怒るかな、やっぱり? あと、夕べ『ウザい!』ってやめちゃったあの話、お父さんともうちょっとしてみよう。そうだ、夕べみたいにビール飲んでたら注いであげてもいいかも。そしたら夕べみたいにお姉ちゃんも『ちょっと頂戴』とか言うだろうから、あ、そしたらチャンスー!」
ジャガイモ少年と別れ、乗り換えた私鉄の車内でポニーテールはクスクス笑っていた。
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