「自分のことをブスだなんて言うな。本当のブスは自分がブスであることに気づくことさえできない奴だ」で始まる文章が名言として扱われているのを見たんだけど、なんといったらいいのでしょうこの気持ち。
この言葉は「今の自分が嫌いなら少しでも嫌いじゃなくなる様にまずやることやって少しでも好きになることから始めよう。少しずつで良いんだ。諦めなければ必ず綺麗になる。と続くのだけど、続いた言葉を見ても、これが名言と言われることへの、気持ち悪さよ。もちろん、文脈も言葉を発した当人の事情や背景もございましょう。この言葉によって救われる気持ちがあるなら、救われた、という事実に対しての祝福の気持ちも当然ある。
だがしかし、これが名言て。どう見たって、薄眼を開けてみたって、斜に構えてみたって、何かオブラートに包んで解釈してみたって、私はこの言葉からは、ひどいルッキズムしか感じないのだ。容姿差別を大前提にした挙句にその悩み自体を向上心として取り扱って、反転させて、ってもう最初が間違ってるから!
すごく意地悪な見方をしてしまえば、「本当のブスは自分がブスであることに気づくことさえできない奴だ」ってことが、わかってるから、自ら「ブス」って口にする、ことに意味が生じてしまってる、ということだってあるんじゃないですか?なんにせよ、自分も他人も、簡単にブスだなんだ、と言ってしまえるその物差しで生きる社会、私すっごいきついんですけど。きつくないんですかね…?
容姿、というものの価値に「必要以上に」重きをおく傾向というのはあって、それを自分自身の価値観の問題、と片付けたいところだけれども、そうじゃない、と感じることもやっぱりあって、例えば、上の言葉のようなものこそ、私にとっては、そういうものだ。
そういった価値観で痛い目を見る前の、自衛のための自虐ってあるし、そうしていかなきゃ本当にきついってこともある。
でもねー自分の事をブスと言ってるうちに麻痺していく何かはあるなあ、と思ってね。鈍感にならざるえない、というかさ。そして、そゆことつづけてると、本当にわからなくなっちゃうんだよね。
自分のことを、ブス、と言ってしまえる人は、他人のことも、ブスって言える人、なんですよ。早晩そうなっちゃうの…それはつまり、容姿差別を容認し、加担すらしてしまうってことなんですよね。
容姿、という価値はそれはそれで。でもやっぱ、簡単に、ブスって言っちゃダメだなあ、って思うです。
