『アメリカン・スナイパー』から、メジャーな種類のキリスト教についてまだ考えている。
皮肉なことにキリスト教の根本義である、実体を伴った神の子、しかも死んでから腹の傷に手を入れられる状態での復活というのが、神の外部化の大きな端緒だった気がする。
この肉体を持って実体化した神の子=神の概念を、えらい人たちが公会議で補強に補強をしまくったのが神の外部化を加速したよねきっと。マリア信仰もやや加担したかな。
そもそものユダヤ教、公会議で異端として潰されたとことか、別れてった流派の神はまだ、ひとの内部にいる神と対話する緊張関係がある感じする。イスラム教が偶像崇拝を禁じたのも、神の外部化を防ぐ意図もあったんじゃないかと、ちらりと思う。
ただ、どちらがいいとか悪いとかは言えない。ローマの国教になっていく過程とかを考えると、それがちょうど社会の流れによる要請に合致して、国家と宗教が相乗効果で発展したとも思えるし。
でも、スペイン艦隊の南米侵略っぷりとか、イエズス会の海外布教とかを考えると、国家と二重になった強固な規範の外部化は恐ろしいな、とも思う。
