今朝、定期的にやってくるキリスト教系新興宗教の勧誘が来た。夫の人が出たら、やりとりの中で
「今日は聖書というとても素晴らしい本をご紹介に参りました。聖書には生活の役に立つこともたくさん書いてあるんです。昨晩の熊本の地震も、ここに予告されていたと読み取ることもできます」
などと言っていたらしい。
ふざけるな、と言いたい。出ようかと思ったけど、出なくてよかった。わたしがそんなこと言われたら、
「じゃあ事前に救援隊と救助物資は送ってらしたんですよね? 善きサマリア人のように?」
と言ってしまったに違いない。で、こういうことを言うと、「聖書を生半可に知っている」=布教のとっかかりがある、とみなされるのか、粘着されたりするのは過去、経験済み。
わたしからすれば、生半可なのは彼らの方。神を語るのに、ソドムとゴモラ、あるいはノアのような天災だとか、他人の不幸を神の怒りに触れたとして引き合いに出すのは、キリスト教系新興宗教に限らず、昔からよくある浅はかな常套手段。
しかし、神の怒りに触れるといけないから身を慎む、というのでは、パイセンの暴力が怖くてパシリをしているヤンキーと構造的には同じ。聖書、とくに新約聖書は、神をただ畏れよと説いてるんじゃないのに、と、真剣に怒りを覚えるポイントです。イエス・キリストも、ユダヤ教による怒れる神の強調に待った!をかけたくて、父なる神の慈愛あふれる面をアピールしようともしたのだろうし。
そして、聖書にあるとおり、人が神の似姿として造られたと信じるなら、いとうせいこうがラップした「善の衝動」を解放すべきだとわたしは思う。そして、他人の不幸に依って神を語るのではなく、自律して神のみわざを行え、と言いたい。自律なき衝動的行為は迷惑行為になりがちだから。

